17 長野 園原 高遠 権兵衛峠 奈良井 野麦峠 安曇野 碌山美術館 大王わさび農園 2003/07/19〜2003/07/21
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7月19日、長野県阿智村の月川(げっせん)温泉に泊まる。薬湯を作る目的で井戸を掘ったら、温泉が出てきたそうだ。隣の昼神温泉と同じような温泉だった。
私の謡曲の師匠が主催した、13人の団体さんだった。岩手、東京、埼玉、愛知、兵庫、鳥取各県からの、いろんな分野の人達だ。ただし、ご隠居さんが多い。 |
7月20日、阿智村園原を歩く。謡曲「木賊」の舞台。古代東山道の恵那山越えの信州側宿場だった。日本武尊、坂上田村麻呂、伝教大師、金売吉次と義経の話や、足跡が残っているようだ。
参照 「謡蹟 園原」 |
信州高遠は、武田信玄、織田信長等による争奪の場だった。明治維新は、内藤新宿の内藤氏が殿様だった。
絵島生島の絵島が流罪となり、ここ高遠で30年程死ぬまで過ごした。30歳くらいの女盛りの大奥の主のような女がその後、30年も格子のある屋敷牢(囲い屋敷)で過ごした。週1回程度の行水で、硯や紙もなく、お経を上げる事ぐらい。想像出来ないほど酷だったろうと思う。 城趾の桜は緑一杯。少し散歩して、お別れ。 |
伊那と木曽谷を結ぶ、権兵衛峠は、江戸初期に権兵衛さんが切り開いた道で、米を木曽谷に運んだ
道、1日1000頭の牛馬が通ったそうだ。今は国道361号線となっているが、林道を繋いだ道で、冬は閉鎖、大型車は通れずの通、権兵衛トンネルを掘っていて、排水用のトンネルが貫通した所との事。1,2年
の後には開通かしら。
権兵衛峠は見晴らしが良さそうだったが、今日は駄目だった。 |
中山道の奈良井で昼食。土砂降りの雨。沢山の観光客が居たが、雨が止む頃には、ほとんど居なくなっていた。 |
女工哀史で有名な野麦峠のお助け小屋で泊まる。山本茂美
作『ああ野麦峠』の中で「ああ飛騨が見える」と言いながら、この峠で亡くなった100円製糸女工政井みねさんは20歳、兄の背負子で死んだ。本当の事らしい。
100円で、故郷の家族が1年生活出来たようだ。 |
7月21日、安曇野に出る。山は雨であったが、安曇野に出ると夏の空が顔を出していた。 |
北アルプス牧場直売店に寄る。ソフトクリームがうまかった。
ガラス細工の工房に寄った。観光客で一杯だった。 |
碌山(ろくざん)美術館拝観。
荻野碌山の作品を見た。荻原守衛(もりえ)は長野県南安曇野出身。号は碌山。アメリカ、パリに渡り、絵を学ぶが、ロダンの作品に触れて衝撃を受け、彫刻家へと志望を変える。帰国後、相馬夫妻(妻は相馬黒光)の経営する新宿中村屋の近くにアトリエを設け精力的に制作を行うが、1910(明治43)年30歳で急逝した。《女》は守衛の絶作で、日本近代彫刻の代表作であるとの事。彫刻は、判りやすい形で、何かに取り付かれたような迫力のある作品だった。 |
昼食は、ざるそばを食べた。そば屋さんは何処も満員だった。良い庭があった。 |
大王わさび農園を見学。始めてわさびの栽培を見た。雨の後なのに、澄んだ水が流れていた。後で調べたら、15万トン/日の湧水のようだ。
魏石鬼(ぎしき)八面大王という豪傑が居たが、全国を統一しようとする大和朝廷に猛烈に抵抗した。優秀な鉄器の武器を持った坂上田村麻呂と戦った。負けて、八つ切りにされたと説明があった。安曇族の大将だったと思うが、本当の事は、不勉強で知らない。 最後に戦った祠が農場の中にあり、神社もあった。 |
道祖神。改めて、歩いて廻ってみたいと思う。 |
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