3 雲出 松阪

16 km         1998/01/11 作成 2003/08/02

伊勢街道へ


 

 JR高茶屋駅から旧道を歩く。
 雲出(くもず)川の左岸の常夜灯、雲出川、右岸の常夜灯あり。
 松浦武四郎生家を外から拝見。

 松浦武四郎は蝦夷地の探検家、「北海道」の名付け親として知られている。武四郎は日本全国をくまなく旅した大旅行家で、その旅の記録など多くの著作を残した著述家でもあった。江戸から明治に掛けての人。

 松浦家は紀州藩の郷士で代々、土地の庄屋などを勤めてきた家で、父は本居宣長の門人で国学を修めた人だった。

 今の中林は昔、月本と言われていた。奈良街道との追分。正面に「右いがご江なら道」、右に「右さんぐうみち」、左に「月本おいわけ」裏に「左やまと七在所順道」と書いてある大きな道標があった。常夜灯もある。
 曽原茶屋のT字路に「一志駅跡」「左からす道」の表示ある道標があり、また「勅使塚」がある。伊勢詣りの途中で死んだ勅使を葬った塚との事。「からす」は「香良州」と書く。
 三渡(みわたり)川を渡った所に、常夜灯、道標がある。北を向いて、正面「いがごえ追分 下に小さく 六へん茶屋」、右「やまとめぐりこうや道」左「右いせみち・六軒茶屋」とある。
 市場庄に忘井(わすれい)あり。斎宮群行(さいぐうぐんこう)の際、官女が望郷止みがたく歌を詠んだそうだ。 「別れゆく 都の方の 恋しさに いざ結びみむ 忘井の水」 官女甲斐

 斎宮群行は、斎宮となる皇女が伊勢へ下る行列のこと。

 久米の集落で、獅子舞が門付けしていた。珍しい物を見た。何十年ぶりだろう。
 久米の薬師寺お参り。奈良時代、行基の創建。
 松阪大橋に到着した。今日はここで切り上げ、高田本願寺に向かう。
 津市一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)は、15世紀、この地方の人々が真宗高田派第10世真慧を下野国高田から迎えて、1470年ころ無量壽院を建てた。戦国時代になり、下野高田の専修寺が炎上荒廃したことから、ここが高田派教団の中心となり、寺名も「専修寺」とした。そして16世紀末には専修寺を中心に末寺や民家を囲い込んで、周囲に外濠をめぐらし、寺内町の形態を作り上げたようだ。
 専修寺お参り。江戸の建築の御影堂、如来堂、山門があり、威容を誇っている。
 寺内町は、堀で囲われた町だった。今も外濠としていた、毛無川が流れている。
 橋向通は25軒の水茶屋があり、遊女を置いていた。山田古市、松阪に次ぐ第3の遊郭だった、と説明があった。
 

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