5 小俣 山田 外宮・内宮

17 km         1998/03/01 作成 2003/08/02

伊勢街道へ


  近鉄明星駅から歩く。徳浄上人千日祈願の塔 があった。江戸の天保の頃、大飢饉にみまわれたが、この僧が村民の窮状を救わんと伊勢両宮に千日の間、素足で日参した。その後、明野村は疫病も、盗難、火災も無く暮らす事が出来た。この僧は徳浄光我上人と言い、千日祈願の徳を讃え建立したものと、説明があった。四国遍路にも、このような坊さんが何人かおらした。
 へんば餅屋 を覗く。店に、へんば餅の箱入りが、少し置いてあったが、声を掛けたが返事無しで、寄らず仕舞い。

 へんば屋とは、馬に乗った参宮客が、ここで馬を返して一休みした(返馬)茶屋から名付けたそうだ。

 庚申堂 お参り。派手な感じのお堂、地元の人達の信仰を得ているのだろう。
 離宮院は斎宮の斎王が伊勢神社にお参りする時の宿舎だった。離宮院跡 は土塁が一部が残るのみだが、公園になり、離宮院公園になっていた。

 梅が咲き、モデルがおり、写真愛好家が盛んにシャッターを切っていた。 

 官舎(かんしゃ)神社お参り。離宮院が出来た時、作った神社だそうだ。
 鳥羽藩本陣跡 、高札場跡があり、「参宮人見附」の石碑もあった。
 宮川・桜の渡し を拝見。宮川の岸は桜が咲き、茶屋が並んだ。伊勢神宮参詣人は、皆この渡しを渡った。舟で渡ったようだ。
 宇治山田の入り口が、宮川の支流清川に架かる筋向橋。今は橋の欄干のみ。小さい橋なれども、宮川の上下の渡しより来る人の落ち合う場所として名高かった。
 漢方薬の店、小西万金丹薬舗 あり。独特の建物。今まで残っている事も嬉しい事だ。
 月夜見宮 (つきよみのみや)お参り。祭神は天照大御神の御弟神、月夜見尊(つきよみのみこと)など、神宮外宮の別宮。
 外宮の裏参道と月夜見宮 とを結ぶこの道を神路(かみじ)と言っている。神さんが通った道で、人間は中央を避けて端を通ったそうだ。
 外宮 お参り。外宮は、豊受大神宮(とようけのおおみかみ)といい。お米をはじめ衣食住の恵みを与る産業の守護神。
 小田の橋 。外宮と内宮を結ぶ、いろんな書き物に出てくる、名の売れた橋だ。
ise980102huruiti.JPG (10334 バイト) これから、古市へ。間の山(あいのやま)お杉お玉 の石碑。三味線を弾き参詣客から金を貰っていた女達の事。この女達、客の投げる銭を顔を振り、上手に避ける。

 例の弥次喜多も投げたが当たらず、悔し紛れに投げた小石はバチで跳ね返され谷治さんの顔に当たり、散々の目に遭う。いよいよ古市。

 内宮と外宮の間の 「 古市 」 は、一大歓楽地で、参拝が終わった後に、ここで精進落としをするのが隠れた「お陰参り」の目的だったとも言われていた。

 弥次喜多はお参りの前に精進落としをしたわけだ。 備前屋跡あり。

 ここの遊女で有名なのが、「伊勢音頭恋寝刃(こいのねたば)」。町医者の孫福斎(いつき)が油屋に上がり、敵娼(あいかた)の阿紺を、後から来た大尽にとられ、脅すつもりで刀を抜いたが、奉公人、客を切ってしまい自刃してしまう。これを面白可笑しくしたのが例の芝居だ。芝居では、福岡貢とおこん。

  大林寺お参り。ここに、阿紺、孫福斎の墓がある。おこんの戒名「増屋妙縁信女」、孫福斎の戒名「光屋貞陰居士」。

 中山道上尾の遍照院にも「廓室妙顔信女」のお墓があった。

  油屋跡あり。
 旅館 麻吉あり。旅館で唯一、残っている。
  寂照寺 お参り。寂照寺は千姫(二代将軍秀忠の女)ゆかりの寺。大阪の陣の後、本田忠刻と再嫁した千姫は、忠刻との間にできた子どもが育たないので、伊勢の尼上人に依頼して伊勢神宮に祈願した。すると、次の一子は無事育ったので、千姫は伊勢神宮を厚く崇敬したと言う。千姫没後、忠刻が桑名藩主でもあった事から、伊勢と神宮ゆかりの地、古市に菩提寺として、建立したもの。

 中興の祖と言う月僊(げっせん)上人は、寂照寺の再建のため入山したが、伊勢に来る多くの不幸な人達を見るにつけ、人を救う事こそ生きた伽籃再建であると考え、社会福祉に手をさしのべたと言う。山の間の山道の改修・天明飢饉の施米・宮川架橋・文化年間の伊勢大火罹災者の救済・窮身永代救済に千五百両を奉行所へ寄託する等、寂照寺再建と共に、社会福祉に貢献した。慕われていた。

 伊勢古市参宮街道資料館で、昔の町を見てきた。私がまだ読んでいない、いろいろな小説に、よく出てくる町のようだ。思ったより、名の知れた町だなと感じた。
 おかげ横町は、まだ余り流行っていなかった様に思う。。
  内宮お参り。天照大神が神様。豊受大神が食べ物の面倒を見て居るんだそうだ。
 

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