第37日目     2002/12/04 (水) 

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 経路    薬師会館 平等寺 龍山荘

 歩き距離 50千歩 35km  地図上距離 28.4km

 出発 7時  到着 16時  雨後晴れ  すれ違ったお遍路さん 6人

 宿屋    薬師会館  泊まりのお遍路 4人


 
 国道55号を行く。先回、昼食をとった食堂をみて、星越トンネルを越え、10時過ぎ、小野の由岐分岐点到着。

 先回、由岐へ出るつもりが、国道55号を歩いてしまった。その為、改めて2000年5月、JR阿波福井駅を降り、由岐経由で、薬王寺まで歩いた。

 10時半、鉦打到着。55号線の際に、鉦打坂薬師堂、鉦打大師堂があった。由来の説明看板、新しい花が供えられていた。地元の人が、しっかりと世話しているんだな。

 ここから、国道と別れ、車1台通る、遍路道を歩く。分岐点、山の道も良く覚えていた。峠を越えて、月夜、広重、生谷、片山の集落を行く。

 月夜の石仏。

 12時過ぎ、22番平等寺お参り。ほぼ雨も上がり、カッパを脱いだ。境内に、石仏が沢山集めてあった。 
 境内の石仏。
 お寺を出て、右、南への遍路道を行く。この道沿いも石仏がたくさんあった。

 大根峠への遍路道へ入ったが、山の歩き遍路道へ入る箇所を間違えた。間違いに気が付かず、舗装が無くなる所まで行ってしまった。

 この間違いは、大事件だ。農家を1軒ずつ、玄関まで行き、案内を乞うた。留守が多く、3軒目で、お爺さんに会う事が出来た。

 よく間違える所で、もう何回も教えてやった。もう少し下って、左へ曲がれ、と言って見えた。みかんを貰う。

 お礼して、向こうを見ると、山の裾を順回りのお遍路さんが歩いている。

 分岐点は、遍路札、四国の道の石柱もあった。よく見れば判る。

 左の写真で右に曲がる。右の写真の奥に見えるのが、次のお墓。

 ここに、お墓があった。最近のお墓はなかったので、無縁のお墓なんだろうと思う。

 13時半、山に登り始めた。1時間ほど時間を費やした。しかし、間違えるのは、当たり前で行こう。時間の余裕もあるし。

 阿瀬比で、国道195号と緩い角度で交差する。真っ直ぐ行けばよいと頭で思っていたので、195号線を行きそうになった。太陽が真正面に見えたので、足が止まった。

 すぐ、気付き、少し、右方の道へ向かった。地図をよく見れば、195号は西に、遍路道は北。ただし、天気が悪く、太陽の光がなかったら、195号線を行ってしまったろうと思った。

 確認しなかったが、195号線取り付きの道を間違えていたかもしれない。順回りの時は、スムースに歩いたので。

 太龍寺への歩き遍路道を行く。
 

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第38日目     2002/12/05 (木) 

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 経路    龍山荘 太龍寺 鶴林寺 立江寺 ちば

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 28km

 出発 7時  到着 16時半  晴れ  すれ違ったお遍路さん 7人

 宿屋    ちば  泊まりのお遍路 2人


 

 太龍寺までは、一本道。車道の突き当たりの茶屋は閉めていた。先回は7月だったが、やはり閉めていた。春秋の人出の多い時のみ開いているのだろう。
 ここから参道。工事用の軽トラックが2台ほど登っていった。
 8時過ぎ、21番太龍寺お参り。お寺で、鶴林寺への道を聞いた。登ってきた所をもう少し降りて、細い道であるが、右へ降りろ、後は迷わない。川に出たら、鶴林寺に登る道を聞くように、と教えて貰った。その通りだった。
 順回りの娘さんと行き会ったので、道を聞く。鶴林寺へは、この橋を渡れば、一本道と教えた。大井の休憩所で一服。
 11時半前、20番鶴林寺お参り。恥ずかしながら読めない句碑があった。瀧佳杖の句?
 

 鶴林寺から生名へ降りる道をどうして、確認したか、すっかり忘れてしまった。山門は鶴林寺の最後の撮影時刻となっていた。山門から降りろと聞いたかもしれない。迷った事はなかったので、はっきり道が判っていた模様。水呑大師はお参りした。みかん畑の長い下り坂を下った。先回、ここを登る時、道を間違えた。

 直に平地に出る。

 12時半、生名の集落に降りた。

 14時過ぎ、沼江大師、胎蔵寺お参り。沼江大師は胎蔵寺の一角にあった。

 15時過ぎ、19番立江寺お参り。

 ここにも沢山の石碑がまとまって立っていた。

 恩山寺の山の遍路道には、義経の足跡があったのを思い出したが、恩山寺のお参りは明日とし、自動車道を行く事にした。

 今日は、疲れた。

 宿の部屋に備え付けの落書き帳をめくってみていたら、去年の秋、お遍路した仕事の上の先輩の書き込みを見つけた。お遍路した事は聞いていたが、大変苦労した書き込みを見てしまった。

 早速、書き込みの住所宛に、”書き込みした事覚えていますか”のはがきを出した。

 焼山寺で道を迷い、野宿して、ひどい目にあった。這々の体で、飛び込んだ宿で、暖かく迎えてくれて助かった。大日寺の宿と、この宿へのお礼の言葉があった。

 

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第39日目     2002/12/06 (金) 

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 経路    ちば 恩山寺 井戸寺 観音寺 鱗楼

 歩き距離 36千歩 25.2km  地図上距離 21km

 出発 7時  到着 15時半  曇り  すれ違ったお遍路さん 1人

 宿屋    鱗楼  泊まりのお遍路 1人


 

 7時半前、18番恩山寺お参り。
 ここも、石仏がまとめてあった。
 門を出た所で、散歩のお爺さんが、左を指して、この道が立江寺への遍路道だよ、と教えてくれた。先回、降りていった道である。丁寧にお礼を言って姿が見えなくなるまで見送った。
 旧道の遍路道を行く。

 勝浦川橋を越えた所で、旧道を止めて、初めて通る国道55号を行く事にした。2軒屋駅の近くで、又、旧道に出た。

 今日は時間が余っていたので、阿波おどり会館を見る事にした。阿波踊りは、ビデオが大型画面で映し出されていた。普通の日でもあり、お客は2,3人。ゆっくり、見せて貰った。

 立木義浩の写真展”阿波踊りを撮る”も見る。白黒の写真。光の調子、構図がいい。プロだなと思う。1937年生まれ。同年代だ。ここ徳島の産。そう言えば、TVでそんな放送があったような感じがする。

 12時、眉山に登る。見晴らしがよい。吉野川がきれい。眉山の由来の碑があった。万葉歌から名付けたとの事。

  眉のごと雲居に見ゆる阿波の山かけて漕ぐ舟とまりしらずも 船王(ふなのおおきみ)

 徳島市内で、国道192号に出て井戸寺へ向かう。

 石仏。

 14時前、17番井戸寺お参り。

境内に石仏。宿坊は閉じていた。

 曲がりの多い遍路道であるが、間違えることなく行けた。
 少し田舎の地かなと思う。

 15時過ぎ、16番観音寺お参り。

 

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第40日目     2002/12/07 (土) 

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 経路    鱗楼 国分寺 常楽寺 大日寺 童学寺 植村旅館

 歩き距離 46千歩 32.2km  地図上距離 23.9km

 出発 8時  到着 16時  雨  すれ違ったお遍路さん 6人

 宿屋    植村旅館  泊まりのお遍路 1人


 

 15番国分寺に向かう遍路道は、30m道路に変わっていた。国分寺のある矢野の集落も、広々と見渡せる農地のため、見当が付き行き着く事が出来た。
 8時過ぎ、15番国分寺お参り。国分寺は八十八箇所の内に各県に1つずつ計4つある。聖武天皇が全国に作らせたお寺。
 六地蔵板碑あり。板の石碑で、6つのお地蔵さんが細い線で彫られている。室町から戦国時代にかけて作られたとの事。
 常楽寺までの短い遍路道に、沢山の石仏があり。
 昭和6年の日付のある”無縁者の墓”もあった。
 石仏。

 8時半過ぎ、14番常楽寺お参り。

 大日寺までの遍路道にも、石仏が多い。鮎喰川を渡る橋の途中から、右に降りる遍路道も、良く判った。田圃の道。

 先輩が、這々の体で、飛び込んだ宿の横を通り、車道に面したお寺に出た。

 10時半過ぎ、13番大日寺お参り。 
 刑務所の横を通り、行者野橋を渡り、童学寺へ向かう。
12時、大師茶屋の碑に出会う。

 トンネルを抜けると、下に、大きな町が見えた。こんな山の中なのに、なぜ、大きな町があるんだろうと思った。鉄道の音も聞こえてくる。道を間違えたかと、地図を見直した、が間違いなし。

 13時過ぎ、童学寺お参り。大きな町についてお寺さんに聞いてみた。徳島の隣町で、国道192号で来れば、ここは直ぐ、と聞く。

 遍路地図だけ見ているので、大きな範囲を見ていない。その為の錯覚。遍路地図もよく見れば、お寺さんの言われる通り。

 来た道を帰り、行者野橋に出て、そのまま左岸の道を登る。阿野橋で、地図の遍路道に出た。駒坂の歩き遍路道入り口は、判ったが、雨のため、遠回りの車道を行った。

 宿は、先回も世話になった宿に到着。ぴったり、予定の4時到着ですね、と褒められる。私の歩いてくるのを大分前から、見ていたらしい。カッパを広げて干す、泊まりが少ないので出来る事だ。

 今日も1人。食事時、おかみさんと話をする。若い男の子に途中で会ったろう、昨夜泊まった子の由。大日寺の近くですれ違った子だ。

 冬に入り、お遍路さんが少なくなった。孫が夏休みに来て、手伝ってくれたが、やる事がないと直ぐ、帰ってしまった。のんびりな四国の生活。都会の生活。など 、ゆっくり話が出来た。。

 部屋にあった宿帳を広げると、1998年の記録があった。その時、一緒の4人の名前があった。こちらは、沢山思い出す事があるが、おかみさんの方は、勿論、何も覚えていない。

 

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