12 湯本 小田原 石橋山

20 km     1995/10/19        

東海道へ  

7  正眼寺 小田原 石橋山 真鶴

1995/10/19

能舞台の名所・旧跡へ


 

 湯本駅を降り、正眼寺へ。東海道を京都に向かう時、道の左にあるので、左正眼寺と言っていたそうです。

 鎌倉時代から地蔵堂があり、曽我兄弟の縁者たちがお地蔵さんを奉納したりして栄えていたが、明治維新の戦火で焼失。今、曽我堂、曽我兄弟槍突き石、地蔵堂石仏が残っていた。

 三枚橋を渡り、早川に沿い、下る。山沿いに旧道と民家が連なる。入生田(いりうだ)に紹太寺あり。「春日局」ゆかりのお寺。焼失して、その後再建されていないと説明があった。 風祭(かざまつり)の集落を通過。

 板橋の地蔵尊へも寄ったつもりでしたが、写真が無い。また、寄っていないようだ。

 今日は、東海道は小田原までとし、寄り道をする事にした。

 小田原から石橋山に向かったが、歩いた記憶は無く、何で行ったか覚えが無い。石橋山の後、真鶴駅を降り、タクシーに乗った。真鶴駅に戻り、湯河原駅を降り、城願寺に寄った。続いて、熱海駅で降り、NOA美術館へ寄った。これらは覚えている。残念ながら、最近、記憶が曖昧になってきている。

 石橋山は、頼朝が平家追討の旗揚げをした所だ。東海道線のトンネルを見ながら山へ登った。ここ石橋山で戦死した佐奈田与一を祭る佐奈田霊社があり、境内に石橋山の碑があった。与一の手付石。与一塚。与一の家来の文三を祭る文三堂があった。

 

 また、与一は敵と組み合って負けたが、その場所をねじり合畑と言い、与一討死の地の碑があった。

 頼朝は、石橋山から湯河原の山の手にある、誰何された有名なほこら、椙山岩窟に隠れた。

 その後、土肥実平らが房総へ逃れる準備の間、隠れた「しとどの窟」。逃れる途中の虎口を脱し再生の地である、土肥実平が謡い踊った「謡坂」。

 助けてくれた純海和尚へ贈った「頼朝寺(らいちょうじ)」を尋ねた。椙山岩窟は止めたが、その他は、タクシーで一回りした。

 

 

  謡曲「七騎落」では、実平が主従八騎を忌み嫌って息子の遠平を船から下ろしたが、平家が汀に押しかけてきたので、遠平の身を案じ、「心のままならばあわれ遠平と一緒に討死せばや」と断腸の思いをした、「頼朝船出の浜」。

湯河原駅前に土肥実平の銅像があり、ここが屋敷跡だったと説明があった。土肥氏の菩提寺、城願寺をお参り。

 七騎落ちの七騎を祭った、七騎堂(六角堂)、土肥一族の墓所をお参りする。

 

 西行さんの肖像画があると言う、NOA美術館へ行くために熱海駅下車。駅前で、バスを探して乗る。切符売り場で、美術館の前売り入場券を買う。

 残念ながら、展示なし。係員に聞いたら、どこかへ出張中との事でした。

 能舞台があった。NOA美術館から相模湾を見る。

 

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