6 吉田 二川 白須賀 新居 愛知 静岡 29 km 2007/10/13
|
しまなみ海道の歩き失敗を反省し、東海道を歩くこととした。1番電車に乗り豊橋へ、歩き始めは6時30分。 |
吉田宿は、豊橋と
名が替わり、石碑のみが目立つ。
脇本陣跡。 |
菜飯田楽(なめしでんがく)のきく宗。 |
豊橋、鬼まつりの神明社。 東総門。宿の東入り口。夜は、門を閉め、通行禁止 とした。 |
二川と吉田の中間地点に、岩屋観音があり、昔から有名だった。 岩屋観音の北を通る道が東海道。南を通るのが裏街道、裏街道から岩屋観音に至る、細い道があった。 岩屋山古道と看板あり。 |
岩屋観音堂。
岩が露出した山だ。 「岩頭に銅像の正観音を安ず。明和2年江戸谷中より寄進す。遠境より鮮やかに見ゆる」。今も、遠くからよく見える。 銅像の正観音の写真を撮り忘れた。 |
堂の際に、大杉。 樹齢300年以上。 |
9時過ぎ、二川宿の本陣。
1里半を3時間近く掛かった。 本陣が復元されているが、今日は素通り。 |
白須賀宿の曲尺手(かねんて)。 軍事防衛上、道を曲げ、見通し出来なくしてある。 潮見坂の石碑群。 |
潮見坂から、遠州灘。
長男が乳飲み子のころ、故郷の島田に行く時、スバル360に乗り、この峠のレストランで、昼のミルクを飲ませるのが、恒例だった。 峠のレストランは、未だに、残っているように見える。1号線は、バイパスが出来てしまったが、商売をしているだろうか。 もう、40年近く経ってしまい、その後、行ったことがない。 |
おんやど白須賀。休憩所。以前はなかった。 白須賀宿は、津波で酷い目に遭い、この高台に移ったという。 |
新居宿の手前の山々は高師という。吉田宿の南部にも高師があり、昔から、歌枕となっている。
鎌倉時代の、藤原為家とその母の阿仏尼の歌碑があった。 「風わたる浜名の橋夕しほにさされてのぼるあまの釣舟」 藤原為家 「わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで」 阿仏尼 浜名湖は、今、今切で海と繋がっているが、鎌倉時代、淡水湖で、この辺りに川があり海に流れ出ていた。浜名橋があった。橋本の地名が残る。 十六夜日記 高師の山も越えつ。海見ゆるほど、いとおもしろし。浦風あれて、松の響きすごく、浪いと高し。 わがためや浪もたかしの浜ならん袖の湊の浪はやすまで 浜名の橋より見わたせば、かもめといふ鳥、いと多く飛びかいて、水の底へも入る。岩の上にもゐたり。 かもめゐる洲崎の岩もよそならず波のかけ越す袖にみなれて |
東海道に、浜名旧街道の表示あり。
橋本の交差点。鎌倉時代は、橋本あたりが宿の中心だったようだ。 1号線の、ここを左に曲がると、新居宿。 |
無人島漂流者不屈の精神を伝える、の石碑あり。 江戸時代、新居の漁師、鳥島に、21年生きたという。 3人が生存し、帰還す。 14時、新居関所。次に入ってみよう。 マメが出来た。歩き打ち切る。 |
以 上 TOPへ戻る |