3 池鯉鮒 鳴海 宮の渡し 愛知 29 km 2009/02/28〜2009/03/01
|
図書館で、新聞を読んでから、電車に乗って池鯉鮒へ。次の日も、同じパターン。
けちくさい話ですが、真面目に、新聞代の節約です。 取っている新聞は、朝日1紙のみ。日経、中日、読売、毎日、産経、中部経済、電気新聞を見てきます。さすがに、毎日は出来ませんが、時間を持て余したら、出来るかもしれません。 さて、今日も、歩きに出かけよう。 |
12:00 知立古城跡。
知立神社の神主の住まいだったという。 |
12:10
知立神社お参り。
池鯉鮒大明神といわれた。 本殿と多宝塔。 |
句碑。
不断堂川池鯉鮒の宿農木綿市(ふだんたつちりゅうのしゅくのもめんいち) 芭蕉翁 芭蕉句集には、ないように思う。池鯉鮒蕉門の俳人井村祖風が、芭蕉句碑を建てたという。 |
行戻り 小川に暮る 小鴨かな 祖風 |
総持寺。
本尊の不動明王は弘法大師の作という。 信徒の願いをかなえるために、お不動さまが日夜汗を流しておられるという言い伝えから流汗不動といわれている。 |
名物うどん「芋川
(いもかわ)うどん」の地。「平うどん」だそうだ。
東に広まって、「ひもかわうどん」となった。 東京では、今でも、「ひもかわ」という名前が残っている。インターネットで検索すると、たくさん出てきた。 |
旧東海道。 |
13:20
境川。
尾張、三河の境の川。
|
13:40
阿野一里塚。
職人が、植木の手入れ中。 |
14:20 桶狭間古戦場。 |
弔古碑。桶狭間古戦場の戦記が書いてある
という。
1807年に立てられた。 |
今川治部大輔義元の墓。
1876年に立てられた。 |
七石表の一。 1771年に建立された七石表があり、その1号には「今川上総介義元戦死所」と刻まれている。 |
香川景樹の歌碑。 あと問えば昔のときのこゑたてて松に答ふる風のかなしさ 景樹 香川景樹 江戸後期の歌人。号は桂園・梅月堂など。鳥取の人。小沢蘆庵・香川景柄の門人。 歌は自然な感情を調べとし、平易な言葉でよむべきとし、「新学(ニイマナビ)異見」を著して、賀茂真淵の崇古主義に反対。桂園派という。 |
高徳院。
今川義元の本陣があったという。 |
14:50 ありまつ絞りの有松の町並。 |
有松絞りの祖、 竹田庄九郎の碑。 |
絞り問屋、屋号井桁屋、服部家住宅。
絞り問屋、屋号笹加、竹田家住宅。 |
絞り問屋、岡家住宅。
絞り問屋、屋号山形屋、小塚家住宅。 |
磯丸の歌碑。
そめそめてあけも美とりも有松の里の栄は色にても知れ 磯丸 伊良湖の漁師で、「無筆の歌詠み」といわれた。 |
狂歌師、梅屋鶴寿の歌碑。
あり松の柳しぼりの見世にこそしはしと人の立ちとまりけれ 梅屋鶴寿 |
3月1日。
図書館で、新聞を読んでから、電車に乗って鳴海へ。 |
13:20
千句塚公園。
星崎の闇を見よとや鳴く千鳥 芭蕉 名古屋の鳴海は古来千鳥の名所で歌枕。この夜は月が無いのが残念だと恐縮する知足を慰めるように歌った句。 「星」と「闇」を持ってきたことで窓の外の暗さが、より、一層に。 |
千鳥塚。
芭蕉の生きている間に建てた唯一の翁塚だそうだ。 鳴海六俳仙 下郷知足、寺島ぼく言、寺島安信,出羽守自笑、児玉重辰、沙門如風 |
13:40 笠寺一里塚。 |
13:50
笠寺観音お参り。
真言宗 天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。 |
玉照堂。
六地蔵。 |
西からの笠寺観音。 |
14:20
鎌倉街道の石碑。
鎌倉街道は、東海道よりも、高台を通っていた。 |
15:00
姥堂。裁断橋。
姥堂は、熱田神宮の南東約500mにある。 姥堂の前に裁断橋が再建されている。 この辺りに精神川が流れていて、裁断橋は架かっていた。小田原の合戦の際、18歳で病死した堀尾金助供養のため、母が願いを込めて老朽化した裁断橋を架け替えたという。 |
「都々逸発祥の地」の石碑。
寛政12年(1800年)ごろ、今の熱田区伝馬町の東方付近で歌い出され大流行した。 この辺りは東海道五十三次の1つ、宮の宿と呼ばれ、旅篭が約250軒もあったという。その中の鶏飯屋で働くお手伝いさんが大変な美声で『神戸節』『潮来節』などを歌い、終わりに「どどいつどいどい」などという囃子を入れたのが始まりで、名古屋全域に広まった。 七・七・七・五の字数に合わせ、土地の情景や人情ものを歌い込む人が現れ、名物となった。 |
15:30
宮の渡し。
常夜燈、時の鐘の鐘楼が復元されている。 30人位の東海道歩きの団体に会った。日本橋から歩き出し、今日は、桶狭間から歩いたという。滋賀県の人と話した。 ひつまぶしを食べたいと思ったが、我慢した。 |
次は、桑名から歩くことにする。
団体さん達は、船に乗るようなことをいっていた。 |
以 上 TOPへ戻る |