1 岡崎宿(大平から矢作川左岸まで) 豊田市の長興寺 愛知 20 km 2007/06/15〜2007/06/16
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東海道の歩きに出た。今日は、岡崎大平から矢作川左岸まで西へ。 |
古い道標がある。注意して探せばたくさん残っていると思う。
左 真伝町 東名高速沿い。右 いだ やはぎ道。 右 堂前町 大樹寺道 江戸神田 莊司 |
大平に大岡越前守忠相(ただすけ)の陣屋跡がある。「大岡裁き」の大岡越前守忠相だ。
吉宗の時代、江戸町奉行を務め、旗本から、1万石の大名になった。 その領地が、此処にもあった。だだし、1度も来たことはなく、代官がいたという。 |
岡崎市のパンフレット。 東の外れに、「欠町 二十七曲の碑」。 二十七曲の説明が詳しくかいてある。 |
二十七曲のルート図 |
八柱神社。岡崎市東部の岡崎女子短大の近くにある。 欠町。以前、このあたりに住んでいた。
家康の正室、築山御前の首塚。 築山御前は今川の女で、その子信康の嫁は、信長の娘であった。 嫁姑関係や、勢力争いがあり、家康は、築山御前と長男信康を殺す羽目になった。 |
若宮八幡宮。1号線の南、若宮町にある。
家康の長男、岡崎三郎信康の首塚。 出来のよい息子だったようだ。 初めてお参り。 以上二つ、二十七曲から外れている。 |
根石寺(根石観音堂)。
観音像は、行基が作ったという。 |
木村資生(きむらもとお)の像。 世界的
な、集団遺伝学者。文化勲章受章。中立進化説の提唱者。1924年岡崎生まれ。
中立進化説とは、分子レベルの進化はダーウィン的な適者生存だけではなく、生存に有利でも不利でもない中立的な変化で、たまたま幸運に恵まれたものも残っていくという学説である。中立説は発表当初多くの批判を浴び世界的な論争を引き起こした。その後、この説は広く認められるようになった。 私もこの説が正しいと思う。分子レベルでなくても、自然、経済も同様と思う。 適者でなければならないが、そのときどきの偶然、幸運によって、その時の自然の力関係によって、進んでいく。 各々は、自分の利益だけを考えて懸命に生きる。その代わり、他の生き物に食われるために生きている。 人間以外の世は、それでよいが、考えることの出来る人間は、それだけでは、不十分と考える。今の日本国は、犬や猫、細菌やビールスと同じだ。悪いことはやらないよりも、儲かりさえすればよい。 |
岡崎市郷土館。
地理学者、志賀重昂(しがしげたか)の収集資料展示。 民具、北野廃寺、矢作川河床遺跡、など展示。 建物は、国の重要文化財に指定されている、旧額田郡公会堂。 此処も、初めて。 |
二十七曲の石碑。
岡崎城二十七曲 両町より伝馬町角。 岡崎城二十七曲 両町より伝馬町角。 |
両町の常夜灯。
破損が激しく、一部のみ残っている。 |
左の写真 左 紙屋
の紙惣の建物。右 永田屋肉店の建物。
右 紙惣の看板。 江戸の商家、旅籠の建物という。 |
大黒屋 江戸からの薬屋さん。 |
西本陣跡。少し前まで映画館。今、コンビニ。 二十七曲の石碑。 岡崎城二十七曲 西本陣前角。 |
旧東海道の伝馬町。今も、勿論、伝馬町。 石の彫刻が、説明付きで、二十以上あり。 道標 きらみち と読める。 |
赤レンガと花崗岩の建物。
旧商工会議所。大正時代の建物。 |
籠田総門跡。
城の東と西に、総門があった。 |
総門の北に、今、籠田公園あり。
東海道の道筋だ。常夜灯あり。 二十七曲の石碑。 岡崎城二十七曲 籠田町より連尺町角。 |
二十七曲の石碑。 岡崎城二十七曲 岡崎城対面所前角。 岡崎城二十七曲 材木町口 木戸前。 |
二十七曲の石碑。 岡崎城二十七曲 材木町より下肴町角。 岡崎城二十七曲 下肴町より田町角。 |
「唐弓弦」の看板。
唐弓弦は綿を打つ道具とのこと。 看板が残っているが、商売はしていない。勿論、家も古い。 |
二十七曲の石碑。
岡崎城二十七曲 板屋町角。 |
松葉総門跡の碑。西の総門。 |
八丁味噌工場 カクキュウ
八丁蔵通り。最近の命名。 |
矢作川の際に、新しい石碑。
秀吉と蜂須賀小六が出会った、矢作橋は、現在、拡幅工事中だ。 |
6月16日、豊田市長興寺町の長興寺をお参りしてきた。 |
1336年、挙母城城主の中条備前守秀長の菩提寺として作られた。
現在、土地の名前として残っている。 寺は、小さくなったが残っている。 |
左 中条備前守秀長の墓
右 鐘楼。 |
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