2 岡崎 藤川 赤坂 御油

20 km    1995/01/02

東海道へ


 

 東海道を歩こうと思い立ち、まずは岡崎宿からスタート。

tookazaki9501.JPG (17833 バイト) 岡崎宿の東海道の面影はどこにも見あたらないが、此の道が東海道だったと石標などで判るように整備されている。岡崎城の近くでよく曲がっている、二十七曲がりの道の曲がり角には、石碑の表示があり。大平(おおひら)の一里塚から矢作川まで、ほんの一部を除いて立派に残っている。中心部を外れると、幅 2m 位の道、昔の道幅かなと思われる。本陣跡などあるが、すっかり新しい町に生まれ変わっている。伝馬通りなどの名も残り、又、古いお寺さんも多い。

 北の外れに、徳川家の大樹寺がある。家康が、桶狭間で負けて、岡崎に逃げ帰り、立て籠もったお寺さん。今は敷地も狭いが、当時は大きなお城のようなお寺だったと思う。

 大樹寺の大門から、南を見ると、真正面に岡崎城の天守閣が見える。お城をそのように作ったのだそうです。

 岡崎城の天守閣は、コンクリートの天守閣。天守閣際に立派な能舞台がある。ただし、見所が青天井。経費を節約しtookazaki9503.JPG (17957 バイト)たのかな。

 町中に、家康のおじいさんの墓碑がある、随念寺と言うお寺さん有り、能舞台もあり。宝福寺さんにも能舞台があった。岡崎の同好者仲間で若い頃よく利用した。

 町の東外れの、八柱神社には、家康の正妻だった築山御前の首塚がある。家康が、出来のよい長男と共に、殺してしまった人です。

tookazaki9504.JPG (21892 バイト)tookazaki9502.JPG (27030 バイト) 岡崎の東方の外れに大平の一里塚がある。片側だけだが、立派な一里塚である。大岡越前守忠相の屋敷跡あり。大久保彦左衛門もこのちかくの人。

 東海道は、1号線となり、幹線の自動車道となっているが、市街地を抜ければ、旧道は生活道路となって半分以上残っている。その生活道路に沿って、藤川、本宿、赤坂、御油があり、昔の面影を残している。

tookazaki9505.JPG (25769 バイト)tookazaki9506.JPG (23293 バイト) 藤川の松並木は、市指定文化財となっている。若い松が多いせいか、元気の良い並木だ。藤川の東に本宿村があり、今は住宅地となっているが、昔は旅人の休息場として繁盛したとのこと。また、法蔵寺と言う寺あり。徳川家の関係した由緒あるお寺さんですが、近藤勇の首塚がある。

 次が有名な赤坂、御油の宿。松並木は天然記念物。ここは、立派な元旅籠の家がある。昔の面影をよく残している。赤坂の南側は、山が迫っているが、宮路山と言う。頼朝が上洛の帰りに、宮路に宿すとあり、また、持統天皇行幸の地のようです。今は、赤坂から、平地を吉田へ出ているが、鎌倉室町の頃は、宮路山を越える東海道だったようです。多分、豊川の水、湿地帯などで山越えしたのだなと思う。

今日は、寄り道を含めて、20km 程歩いた。次は、この御油から東京へ向かって歩く事にする。名鉄電車で家へ帰る。ところで、JR東海道線は、この東海道筋から外れている。地元の人が、鉄道に反対したんだそうです。

 2001年4月15日 追記

 宮路山越えは、御油赤坂の谷道(東海道筋)が、歩きにくかったので、本宿付近から、南側山部に入り、宮路山中腹を通り、赤坂に出た。すぐ、北に渡り、豊川の高みの丘陵地を東に向かった。が正しいようです。 訂正します。

 

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