5 舞阪 浜松 見付

34 km    1995/09/03        

東海道へ


 

 新居、舞阪の間は室町時代の明応7年(1498年)の地震で海と繋がり、それ以降、渡し舟での渡しになった。

 鎌倉時代は、陸続きであった。十六夜日記に「浜名の橋より見わたせば、かもめといふ鳥、いと多く飛びかいて・・・」とあり、橋がかかっていた。

 渡船場跡北雁木(きたがんげ)があった。石畳が階段状に海まで、敷き詰められた所と説明があった。本陣跡、一里塚跡、見付石垣、高札場跡、松並木があり、看板の説明あり。

 二つ御堂あり。奥州平泉藤原秀衡が京へ出向いた時、病気になり、愛妾が 殿の身を案じ、京に行く途中、ここで死去の知らせを聞いて、阿弥陀如来のお堂を建てた。一方、秀衡は病が治り、帰る途中、ここでその話を聞いて、薬師如来の堂を建てた 。地元では、毎年供養をしている。の説明看板があった。

 また、小さな川に架かる鎧橋について、平安時代の戦いの場所で、鎧橋の際に戦死者を葬ったとの説明があった。

 浜松宿の旧東海道は立派な一号線になっており、譜代大名の居城であったのに、江戸の気配は何も無かった。

 天竜川木橋跡、舟橋跡、天竜橋跡の説明あり。天竜川も渡船だったと思うが。なぜ、橋の説明があったか忘れている。

 天竜川左岸を少し上ると、鎌倉街道の宿、豊田町池田 の宿。謡曲「熊野(ゆや)」の故郷です。

 池田の長者の娘、熊野は平宗盛の女であったが、母の病が重く、故郷へ帰りたかったが、清水寺の花見に、いやいやながら連れて行かれる。そこで、帰りたいとの歌を詠み、許され、喜び勇んで故郷へ帰る話。

 今、長者屋敷の跡が行興寺で、熊野の墓がある。また、立派な藤があり、「熊野の長藤」と言われている。

 JR磐田駅から帰る。

 

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