8 舞阪 浜松 見付   静岡

27 km       2007/11/04

西行・一休など    東海道へ


 

 東海道舞阪(舞阪駅)から見付(磐田駅)まで歩いてきた。歩くのが目的で出かけた。27km 7時間。

 マメは出来なかったが、すっかり疲れてしまい、最後は、漸く足を前に出して歩いた。よく寝て、次の日、足の痛みはなかった。少し慣れてきたようだ。

 東海道舞阪駅。6時半、スタート。

 最近、駅舎の作り替えが盛んだ。

 馬郡(まごおり 馬郡町)に、馬郡観音堂跡があった。1995年に歩いた時は、見落としていたらしい。覚えがない。

 11世紀頃からあったという。観音像は、近くのお寺に安置してあるという。

 篠原一里塚。看板のみ。
 若林二つ堂。

 奥州平泉の藤原秀衡が京へ出向いた時、病気になり、愛妾が身を案じ、京に行く途中、ここで秀衡の死去の知らせを聞いて、阿弥陀如来のお堂を建て、秀衡を弔っていたが、まもなく死んだという。

 一方、秀衡は病が治り、帰る途中、ここでその話を聞いて、北側(写真左)に、薬師如来の堂を建てた。

 加美一里塚。看板のみ。
 鎧橋(よろいばし)。小さな川に架かる小さな橋。

 平安時代の戦いの場。戦死者を葬ったという。

 現在の浜松駅周辺。東海道を外れ、駅前を行った。

 十六夜日記   こよひは引馬の宿といふ所にとどまる。この所のおほかたの名は、浜松とぞいひし。親しといひしばかりの人々なども住む所なり。住みこし人のおもかげも、さまざま思ひいでられて、また、めぐりあひて見つる命のほども、かへすがへすあはれなり。

浜松のかはらぬ影をたづねきてみし人なみに昔をぞとふ

 天竜川西の中野町に、金原明善の生家。天竜川の治水に貢献した、この地方の豪農という。

 さすかたはなくてただ飛ほたるかな 蒼山

 摩訶庵蒼山は、山形の生まれだが、江戸から明治に掛けて、この地方の俳人を育てた人。金原明善にも、協力した。

 天竜川。

 1995年は、ここから3kmほど北に、熊野(ゆや)の里あり、訪問した。今回は、天竜川に架かる、バイパスの橋を歩く。

 旧道の橋には、歩道が無く、トラックが来る毎に、橋に張り付いた記憶がある。何時のことだったか覚えはない。

 

 十六夜日記  二十三日、天竜の渡りといふ。船に乗るに、西行が昔もおもひいでられていと心細し。 組み合わせたる舟ただ一つにて、多くの人の行き来に、さしかへるひまもなし。

水の泡のうき世にわたるほどを見よ早瀬の小舟さをもやすめず

 宮之一色の一里塚。
 13時、ざるそばの昼食。

 13時半の電車に乗る。

 駅は、建て変わっている。

 駅の階段を漸く登る。

 

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