13 府中 狐ヶ崎 江尻 清見寺 興津   静岡

22 km       2008/04/05

東海道へ


 

 1番電車で出かけたが、豊橋駅で、キップを求める人が多く、購入までに20分を要した。

 乗り遅れた。

 富士山は見えない。用宗駅から安倍川に掛かるあたりは、富士山は右に見える。鉄道の「左富士」。綺麗に見える場所だ。

 静岡駅、9時。

 歩き出す。

 呉服町交差点。伝馬町に入る。

 伝馬町に、西郷・山岡鉄舟の会見の地の石碑があった。1868年3月9日、鉄舟が官軍のいる駿府に乗り込み、幕府との引き継ぎの打ち合わせをした。事実上の徳川の降伏だ。

 5日後の3月14日、江戸にて、西郷、勝海舟との会談が行われ、江戸無血開城が決まったという。

 西郷は、江戸へ何で行ったのだろう。

 私は、1996年、静岡から東京まで、7日かかって歩いている。5日あれば歩けるか。

 曲金観音堂。

 このあたりは、鎌倉の武将、梶原景時一族が滅んだ土地。

 梶原と関係がある観音堂という。

 護国神社。お参り。
 栗原に、操車場が出来、東海道が分断。記念碑あり。

 静岡鉄道が、上部を横断している。

 左の写真の右上に、ぼんやりと富士山が見える。目をこらせば見えた。

 閻魔坂。急坂で難所だったという。
 静岡鉄道草薙駅。
 草薙神社入り口。
 草薙の一里塚跡。
 上原の子安地蔵堂。

 家康が、武田の武将、穴山梅雪と会った場所という。梅雪は降伏。この後、武田勝頼は滅ぶ。

 静岡鉄道狐ヶ崎駅。無かった駅舎が建っていた。ホームに屋根。転落防止の柵あり。

 私の時代は終わった。と、思った。

 まだ、幼かった、戦争に負ける前、父に連れられ狐ヶ崎動物園に行った。その時、このホームで父の手を握っている場面が鮮烈に今も残っている。このホームだけ残っているのは、何か特別のことがあったのだろうか。今は、確かめようがない。

 追分。東海道から清水みなとへの分岐点という。

 元追分の金谷橋。

 清水次郎長が、子分の森の石松の恨みを果たすために、ここで、遠州都田の都鳥吉兵衛を殺したという。

 江尻宿の木戸跡の石碑。

 細井の松原。東海道の立派な松並木があったという。

 この戦争で、松は切り倒された。

 清水袖師の横砂西町で、80歳の、凄い、お婆さんに会う。女は強い、改めて思う。

 子供に財産は渡すなと説教される。

 今、ひどい目に遭っている。息子に住んでいる家など渡したら、相談無く、勝手に安い値段で売ってしまった。今、取り返そうと、市や弁護士と相談して、奮闘中。自分が生きている内は、財産は絶対に渡してはだめだ、と、念を押して説教あり。

 自転車で、静岡の鷹匠町まで、40分で行くという。今日、私は、4時間かかっている。

 清水袖師の臨済宗、東光寺。

 「思い入る心の山の奥にこそみやこにまさる花もみるかな」 が、黒板に書いてあった。

 袖師。昭和20年代後半。中学校の臨海学校があった。毎年、泳ぎに来た。夏、国鉄の臨時袖師駅が開かれた。海岸は、砂利だったと思う。

 今、埋め立てられて工場だらけ。臨時袖師駅を探すも、見つからず。聞いても判らず。さっきのお婆さんに聞くべきだった。反省!!!

 興津の坐漁荘。

 西園寺公望の別荘。再建されていた。

 清見寺。昭和30年代まで、直ぐ前が、海岸だったという。
 水口屋。元、旅館だった。

 興津は、西園寺公望らの別荘があり、避暑地だった。旅館は、繁盛したという。

 興津宿東本陣跡の石碑。

 興津から電車に乗る。

 興津発浜松行き。浜松乗り換え岐阜行きに乗る。座れたが、次の駅から、立ちん坊が出た。まだ、青春キップ有効期間中。10日まで。

 

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