2 藤川宿 本宿 赤坂宿 御油宿   愛知

18 km       2007/06/11

東海道へ


 

 東海道の歩きに出た。今日は、藤川から東へ。
 藤川宿。西の棒鼻(出入り口)。10時スタート。

 江戸へ78里、京都へ46里。

 歌川豊広の歌碑。

 藤川のしゅくの棒ばなみわたせば杉のしるしとうで蛸のあし

 日差しが強い。

 藤川宿の本陣跡。
 称名寺。 浄土宗
 称名寺の境内に

 武田信玄の弟、河窪 信実(かわくぼ のぶざね)の子孫は、徳川の家臣となる。武田成信はその8世という。

 藤堂家の家臣、武田成信の墓。

 江戸時代の関取、江戸ヶ嵜の墓。

 藤川宿の高札場跡。

 トイレ、駐車場、宿の解説板などある広場に、ハナミズキの木があった。

 東の棒鼻。
 宇都野龍碩(うつのりゅうせき)宅跡と長屋門。

 宇都野龍碩は、江戸時代の本宿村の医者だった。当時としては、画期的な種痘を行ったという。

 一里塚跡。
 元禄時代、旗本柴田勝門が知行所(知行として給与された土地)を、支配するために、陣屋を設けた。

 冨田家は、その代官だった。現在、冨田病院となっている。代官屋敷も残っていると説明が気があった。

 法蔵寺 浄土宗。

 家康が幼い時、ここで勉強したという。

 家康手植えの松。手習いのおり草紙を掛けたことから、「御草紙掛松」と言われた。

 新撰組、近藤勇の首塚がある。晒された首を、同志が攫い、和尚を頼り、此処に持ち込んだという。

 

 磯丸 「みほとけ」歌碑。

 ここは、観音堂のあった場所という。

 旅人が落馬するという出来事があった時に、尼さんが磯丸という歌人に歌を頼んで建てたらしい。

 磯丸というのは、漁師の子ながら後には全国に名を知られる歌人になったという人とのこと。

 赤坂宿の旅籠、大橋屋。

 今も、旅館を営んでいる。

 隣の御油宿と近かったので、飯盛女をたくさん用意して、対抗したという。

 十六夜日記   昼つかたになりて、紅葉いと多き山に向ひて行く。風につれなきところどころ、朽ち葉に染めかへてけり。ときは木どもも立ちまじりて、青地の錦をみるここちす。人に問へば、宮路の山といふ。

しぐれけり染むる千しほのはてはまたもみぢの錦いろかへるまで

 この山までは、昔見しここちするに、頃さへかはらねば、

待ちけりな昔も越えし宮路山おなじしぐれのめぐりあふ世を

 関川神社境内。

 芭蕉句碑 「夏の月御油より出でて赤坂や」

 目通り7.2mの楠あり。樹齢800年。

 御油の松並木
 枯れて、隙間の出来た空間に、松の若木が植えられている。
 御油宿の本陣跡。

 今、たまり、味噌のイチビキの工場がある。

 

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