1 東海道膝栗毛

1996/01/01作成

東海道へ


 

 1995年の正月、「奥の細道」に刺激されて   東海道53次を歩いてみようと思い立ち、我が住まいの周辺から歩き始めた。8月、思いがけず毎土曜日、手に暇が生じたので、土曜日を主に、11月初めまで、500kmを23日で歩き切ることが出来ました。

 かの有名な弥次さん、喜多さんは、第1日目、戸塚まで歩いて、およそ40km。芭蕉も足が丈夫で同じくらい歩いているようです。私は、平均で23km、最大35kmでした。

 体重を減らす目的もあったが、帰りのビール一杯がうまく、結果は、減らすに至らず、でした。

 横浜桜木町駅から山の手に上がった所に、御所五郎丸の墓がある。曾我兄弟、源義朝、頼朝に絡まる話によく登場する人物です。周りはモダンな住宅地、地元の人達が綺麗に整備して(土地は市有地と思われる)祀って、お祭りもしていた。新興住宅地の中で、この様な風景を見ると、つくづく、日本は日本人の国と思う。

 大磯の鴫立庵(しぎたつあん)の傍らを流れる小さい川を鴫立沢と言うそうです。三夕暮れの和歌の1つ、西行さんの「心なき身にもあはれは知られけり鴫立沢の秋の夕暮れ」の鴫立沢です。昔から景色の良い海岸として知られていた。今は、1号線沿いの騒がしい所となってしまって、昔の面影は、見いだせない。

 鴫立庵は日本三大俳諧道場(京都落柿舎、滋賀義仲寺無名庵)の一つとして、今も、活発に活躍。また、弥次喜多さん達も立ち寄り、狂歌を詠んでいる。

 弥次喜多さん達や、「奥の細道」にもよく出てくるが、歌枕、謡曲の旧跡(以後、謡蹟と言う)はほとんど共通。私は、少し、謡曲を嗜んでいるのでよく謡蹟を訪ねる。すると、まず歌碑がある。昔から、人々は、歌、俳句、謡曲に、親しんで来たんだなと思う。今の人達よりも、余裕を持った生活をしていたのかな、と思う。

 箱根八里、宇津ノ谷越え(静岡)、鈴鹿越え(三重)は歩き甲斐があった。峠越えは、鉄道の駅が無いこと、日帰りしたかったことから長距離歩行となった。どこも整備され歩き易い道で登りは苦にならなかったが、長距離には参った。

 弥次さん達が小田原、箱根、三島(この間八里)に泊まっているのを承知で、八里に挑戦。三島から登り、みごと湯本でダウン、温泉風呂(温泉地には大抵あり)に入って、足を引きずり帰った。東海道歩きで一番疲れた。

 箱根の旧道は、所々、昔の石畳を掘削調査中で、石が露出していたが、大きな立派な石が目立つ。調査範囲が広かったので、山道全部が石畳か、と思う。雨が降ると膝まで埋まり、難儀したので石畳とした、と説明あり。相当の交通量だったな、と歩きながら思った。

 弥次さん達、箱根かぶと石で歌を詠む。このかぶと石は、箱根山山頂に近くの笹藪の中にあり、歩かないと判らない所だ。

 旧東海道は地元市町村がよく整備してあり、全区間、安心して歩けるよう、案内も親切に掲げてあった。特に箱根以西が丁寧。

 宇津ノ谷峠は、最近、地元の人達が下刈りし、橋を架け旧道を復活したとのこと。道幅は1mほど。(江戸時代は、参勤交代もあり、2間幅、と、どこかに説明があった)。此の峠には、もう1つ「つたの道」がある。鎌倉街道と言われる道である。鎌倉街道は、東海道のあちこちによく残っていた。

 歩きながら、景色を見、いろいろ考えた。同じように歩いている人、地元の人とも、よく話をした。富士山を数日見続けた。日頃、出来ないことをした。歩くことは、苦しかったが、楽しかった。

 

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