4 姫街道 2 小池 気賀宿 引佐峠 三ヶ日宿    静岡

30 km    2005/02/16

東海道へ


 

 風邪をひき、姫街道の歩きが、今日になってしまった。

 浜松駅と遠鉄自動車学校前駅。

 国道152号線を横切りしばらく歩くと、馬込川。これに架かるのが五枚橋。
 県道を横切って坂道が続く。この坂道を「宇藤坂」と言う。

 国学者杉浦国頭が著した「曳間拾遺」には「うとふ坂」とあり、「本坂の大路にして、有玉の村より三方か原に登る坂をいふなり、その文字は宇藤と書けり」とある。

 なお、坂道を上りきった右手、県道に合流する手前に「最古の道標」と書かれた石碑あり。「右 きが かなさし 左 庄内道」と刻まれいる。裏には「天保三年之建」とある。姫街道では最古の道標と言う。
 一里塚橋を渡り、一里塚橋の交差点を過ぎると、三方原追分の少し手前に、追分一里塚あり。
 三方原追分。

 向こうに、松並木が見える。ここから、3kmほど、左側に松並木が残っている。

 三方原追分から、2kmほど行くと、権七の店があった。

 追分から、ここまで、何もない寂しい街道だったそうだ。この店は、近所の人達の寄合所であり、また、店の前には、山桃の木があって、馬方は馬を留め、休息した。

 今日も商売をしている。200年以上続いている。凄い。

 三方原は、赤黄色の土だ。田圃はなく、畑のみ。

 25000分の1の地図を見ると、真っ直ぐな道が直角に交差し、造った区画になっている。人が開墾した跡なのだろう。

 東大山一里塚。
 地面から龍が曲がりくねって延びたような、樹齢数百年の松があったことから曲がり松とつけられたと言う場所あり。

 現在の松は二代目。

 また、ここには松島十湖の句碑「別るるは また逢うはしよ 月の友」が建てられている。意味は、「月見の友との別れは、又巡り会うきっかけよ」と説明があった。

 六地蔵があった。この裏側に竹藪があり、昔、処刑場だったと言う。処刑された人の霊を慰めるために建てられたそうだ。

 1711年建立と説明があった。

 老谷に入ると、車道から脇道に入る。

 千日堂。江戸時代、老ヶ谷原山開発の褒賞として、建てられた物だそうだ。

 現在も、月、一回の念仏講が行われているとの事。

 梅が咲き始めていた。
 老ヶ谷一里塚。

 細江町の上水道の塔の横に、姫街道があった。

 服部小平太最期の地。

 服部小平太は、桶狭間で活躍した信長の家来だったが、後、家康に付き、この地を治めた。元々、ここは、今川の土地であり、土地の者に恨まれていた。

 独りで、この辺りを巡回していた時、何者かに襲われ、ここで死んだ。近くに、戒名のある墓もあるとの事。

 この山道が、姫街道であり、江戸時代のままだろうと思われる。

 新谷の宗安寺跡。

 服部小平太のお寺であったが、明治に入り、廃された。石段、庭の一部、石仏が残っているそうだ。見に行かなかった。

 都田川に掛かる落合橋。江戸時代は渡船だった。

 細江町ポケットパーク。

 気賀の関址。址だけである。

 建物の一部が民家として残っている。

 椎があった。気賀の領主だった、近藤氏の庭にあった木で、良い実がなり、幕府に献上した。

 それ以来、江戸椎と言われた。当時の名残は、この木のみだそうだ。

 細江神社お参り。

 樹齢500年以上の楠があった。

 町立の姫街道歴史民俗資料館があり、覗いてきた。

 銅鐸が沢山出た町。関所の残っている資料、昔の畳表、蚕、漁などの展示。

 本陣の前に、本陣前公園が出来ていた。狭い公園。
 町の防護のための桝形が造られていた。道を鍵形に曲げたり、土塁、土手、川なども利用した。ここは、西の入り口だった。

 獄門畷(ごくもんなわて)。徳川に抵抗し、2000人が籠城したが、負け全員が殺された。大久保彦左衛門の書いた物に、「男女ともになで切りにした」と在るそうだ。

 呉石学校の跡。

 気賀6代近藤用随公が、地震の後遺症で、百姓が出来なくなった時に、、畳表にする、藺草(いぐさ)の栽培を広めた。昭和30年頃から、みかんなどに替わり始め、50年代には、栽培されなくなってしまった。

 町を外れ、山に掛かると、「山村修理之墓」と刻まれた石碑があった。

 城が徳川家康によって落城した時、城将の一人山村修理がこの地まで脱出して、燃え落ちる城を見ながら切腹したと言われる。

 里人がこの地に遺体を埋め霊をとむらうため松を植えたと伝えられ、この松を修理殿松と言う。

 傍らに、ここの松など、貴重な物を切ったり、壊したりしないでくれと言う看板が立て掛けてあった。又、手を入れ綺麗に掃除されていた。

 今でも、今川を慕う人達が居て、丁寧に祀っている。負けた今川は表舞台から消え、余り目に付かないので、気が向かなかったが、このような人達が居る事に始めて気が付いた。

 修理殿松から、山村修理が見たであろう、気賀の町を見る。

 山村修理の墓から、100mも行かない内に、山田一里塚があった。
 坂を下ると、巨人伝説の池「ダイダラポッチの足跡」があった。他にも、同じような池があった。何処か忘れた。

 又、登りの道。

 小引佐(いなさ)峠。

 景色の良い所だ。道は山道となるが、これから、引佐峠に向かう。

 岩根の集落に入ると、右側に薬師堂がある。

 このお堂は江戸時代の再建で、堂は宝形造り、前半分が板張りの外陣、戸がはめられていない。ぬれ縁とかわりない。後ろ半分が内陣で薬師像が安置されている。薬師堂の横には、岩根の村人達が建立した秋葉山常夜燈がある。
 

 姫街道は、石が引き詰められコンクリートで固めて、非常に歩きやすい。

 このように仕上げるのが、今のやり方なんだなと思う。

 平岩御休憩所の際に、姫岩があった。昔は平岩と言ったそうだ。

 ここで、お姫様がお茶を飲んだんだそうだ。

 石引きの道が続くが、今の自動車道の引佐峠に到着。見晴らしがよい。車の人達が何人かいた。

 歩いて登ってきたと言ったら、驚いていた。

 旧の姫街道の引佐峠。

 「細江町と三ヶ日町の境にあり海抜200mの峠です。姫街道では、本坂峠につぐ難所であり、また景勝の地でもある。昔は峠にも茶屋場もあったらしい。」と案内があった。

 標高200mは、もろの200mだ。

 これから、下り。

 象鳴き岩:外国から献上の象が将軍お目見えのため、京都から江戸へ下る途次、船で渡る今切(浜名湖)をさけて姫街道を通った。象は引佐峠の急な坂道で悲鳴をあげたので、村人はここを「象鳴き坂」と付けた。当時の書物によると象は牡であった。

 右:石投げ岩:旅人が、この岩に石を投げて、無事を占い祈ったと言う。
 

 大谷一里塚。

 一敷の集落の西の入り口。案内の看板がなかった。

 大谷川に架かる大谷橋を渡ると、右手に「大谷代官屋敷」の案内板がある。

 ここは、江戸にいる領主大谷近藤家に代わって事実上領内を支配した大野家の屋敷で現在も子孫が居住している。

 大谷代官屋敷から南約100mには「安形伊賀屋敷跡」がある。戦国末、佐久城主浜名氏の重臣安形伊賀守正道の居住した地である。
 

 東名高速道路で、姫街道は寸断されていた。

 大里(おおり)峠。昔は、雨が降ると川となる、小さな難所だったそうだ。

 宇志川を渡ると、左手には茶屋跡、高札場跡の案内板はあったが、当時の面影は少しもない。
 天竜浜名湖鉄道三ヶ日駅。

 昼は、1時間に1本。40分程待ち、17時の気動車に乗って、新所原駅へ向かった。

 

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