7 薬師寺大講堂落慶法要 花会式  奈良

7km   2003/04/03

京都奈良


 

 薬師寺大講堂落慶法要の招待状を貰い、出席した。なぜ、招待状を貰ったのかは判らない、まあいいや。

 東塔の姿は相変わらずすばらしい。写真には、そのすばらしさは表現出来ないが、暫く、一所に佇み眺める。730年、今から1300年前に作られた建物。 何回も大地震を潜って今も立っている。圧倒される。

 薬師寺の勉強を少しした。

 薬師寺は680年、天武天皇が皇后の病気平癒のため、発願され、薬師寺の完成を見ずして崩御、持続天皇が完成させた。 その後、16世紀には、戦火により金堂、講堂、西塔 など焼失。昭和に入り、1976年金堂、1981年西塔、1984年中門、1991年玄奘三蔵院、2003年大講堂落慶。

 今回、初めて知ったが、奈良のお寺(古い仏教)は、何々宗と言う呼び方はなく、南都の薬師寺という呼び方だったそうだ。今は、法相宗。東大寺は、華厳宗。

 大宝蔵殿で、吉祥天女画像、大般若経、など国宝重文を拝見。重文「古枡」は、大きさが異なる枡。なぜ、違うのかなと思う。今の度量衡の有り難さを改めて思う。

 玄奘三蔵院で、平山邦夫画伯の西域壁画、拝見。薄墨桜が満開だった。背の高さ1m程度の薄墨桜もあった。

 昼食もいただく。

 法要は、12時半から始まる。

 会場は、数千の椅子が並べてあり、花を飾り、舞台があった。雨の日もこのまま屋外でやるとの事。奈良のお寺の行事は、いつも、屋外でやるとの事。これも初めて。

 請鐘、練供養。鐘を鳴らし、創建時の服装をして、行列が境内を一回りして講堂前の舞台に入る。花を掲げ、音楽を奏で、派手な法要であるが、お坊さん達は、10日位世間を絶ってお籠もりして修行した人達だそうだ。

 13時、惣礼(そうれい、と言っていたように思う)。全員起立して、3度頭を下げる。

 開扉の儀。講堂の扉を開く。

 唄。龍が空に現れ、鴟尾(しび、とびのお 今の鬼瓦)の白布を取り外したり、花が降ったりした。散華。

     献香 御家流宗家三條西堯水宗匠。
     献茶 石州流家元片桐貞光宗匠。

 管主の挨拶。

 惣礼。で終了。

 奉納。 百華能、大蔵流狂言 茂山千作師、観世流能 観世喜之師。が奉納する。

 狂言は、3本の柱。3本の柱を3人で、2本ずつ担いで帰れと主人に言いつけられ、言われたとおり担いで帰り、主人に褒められる話。

 能は國栖(くず)。天武天皇が、吉野に逃げた時、漁師夫婦が、くず魚などで、もてなし、追っ手には、舟に隠して救い、最後は蔵王権現が味方し、世は泰平になったと言う話。

 表白、読経。お経は印刷物で配られ、また、みなさんも一緒に、の掛け声もあった。が、般若心経以外は、付いていけなかった。お経は、謡う調子で、判りにくく、何処をあげているのか判らずじまい。

 法要参加者6000人が列を作って、”ところてん”式で、大講堂内部を拝見。

 柱が手斧で丸くしてあった(実際、手で削ったあとと思う)。瓦は4万数千枚。幅40m、奥行き20m、高さ17m。7年がかりの再建だったとの事。
 お寺の木造建築物であるが、建築基準法は守らなければならないので、鉄骨などで補強し、漆喰壁などで見えなくしてある 。よくこのような木造の建物を造る物だと感心する。

 写経は、700万巻、瓦7、8万枚。

 西塔の近くに会津八一の歌碑。東塔側には、佐々木信綱の歌碑、こちらは写真を忘れた。

     すいえんの  あまつをとめが   ころもでの  ひまにもすめる  あきのそらかな 会津八一

     ゆく秋のやまとの国の薬師寺の塔のうへなる一ひらの雲    佐々木信綱
     秋ぞらはきよらに澄めり水煙の天女のすがたけざやかに見ゆ   同

 

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