16 奈良柳生藩家老屋敷 ほうそう地蔵 柳生藩陣屋跡 正木坂道場 芳徳寺  奈良

10km   2006/06/25

京都奈良


 

 朝1番電車に乗り、名古屋から新幹線に。

 今日も、米原で降りて東海道本線で、京都へ。8時半着。近鉄は急行で、奈良駅9時半。柳生への乗車可能なバスの最も早い時間は9時半。新幹線730円、近鉄特急800円の節約 の出来る2番目に早い、行き方を選んだ。

 奈良駅バス停で、八尾市の女性と出会った。歩く会は中止になったのに確認せず来てしまったという。目的地は同じなので、一緒に行くこととした。

 乗車時は雨は降っていなかったが、国道369号線を柳生に向かう山道にはいると雨になってきた。

 忍辱山で降り旧柳生街道を行くつもりだったが、雨の山道は止めることにして、柳生までバスで行くことにした。バス代950円。

 柳生の家老屋敷は、高台にある。表門は、簡単な門、つましい感じだ。

 柳生の殿様は、江戸住まいで、国元は、國家老が治めたとあった。

 

 平屋建て。

 庭も、難しい作りでないように思えた。茶人の指導を受けて作ったとある。

 昭和39年に、山岡荘八がこの屋敷を手に入れ、ここに住んだという。今は、奈良市に寄付されていると説明があった。

 NHK大河ドラマ「春の坂道」も、この屋敷でその想を練った。

 武具。

 右は、殿様用の部屋だった。殿様は、地元に住む家を持っていなかった。

 

 6地蔵。地蔵6体が彫り込んである。

 寝仏地蔵もあったようだが、どれであるか判らなかった。

 旧柳生街道沿いに、ほうそう地蔵。鞘堂の中にあった。

 謂われは書いてなかったが、古い地蔵で、顔面が崩れ、疱瘡に掛かったように見えたらしい。

 その左側に正長元年(1428年)柳生徳政碑の説明文があった。

 土一揆の資料として有名な徳政銘文が石に彫りつけてあるとのこと。

 「正長元年ヨリ サキ者(は)カンヘ(神戸)四カン カウ(郷)ニヲ井メ(負いめ)アル ヘカラス」とあり、「正長元年以前の借金は神戸(かんべ)の四ケ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)では帳消しにする。」という意味である。

 旧柳生藩陣屋跡。

 将軍家の剣術指南となった柳生但馬守宗矩(たじまのかみむねのり)が、失っていた父の旧領の大和国柳生荘を与えられ、晩年さらに加増を受けて、所領は1万2500石に達した。

 その宗矩が建てたが、その後消失し再建されなかった。今公園となっている。

 陣屋跡の際の道の大きな石に、地蔵の彫り物があった。
 柳生茶屋で昼食。

 茶がゆ定食 1050円 を食べた。

 赤米のかゆだったが、余り味がなかった。こんなものか!

 正木坂道場。柳生十兵衛が鍛えた道場という。今日も、試合があったようだ。
 「念ずれば花開くなる必ずや柳生街道来ます日待たむ」の歌碑。

 誰の歌?

 芳徳寺の門前に、「石舟斎累城跡」の石碑あり。
 宗矩が亡父石舟斎供養のための創建、沢庵禅師の開基の芳徳寺。

 柳生の里と街道を見下ろす高台にある。もともと城跡という。

 もともと、どこかの荘園の雇われ武士だったが、戦国時代を生き残った一族の里だ。

 

 歴代の一族の墓、80数基ありという。

 帰って資料を読み知ったが、酒樽の台、徳利の塔、杯の笠の墓は、八代藩主の二男柳生俊睦乏斎の物という。

 左、中央奥が、宗矩の墓。

 十兵衛杉、一刀石は、行くのを止めた。

 雨の柳生だった。

 

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