5 艸墓古墳 メスリ古墳 聖林寺 多武峰 談山神社 石舞台 猿石  奈良

19km          2002/05/03

京都奈良


 

 バスは出たばかりで、次は1時間後のため、桜井駅から徒歩で南に向う。 まだ見ていない古墳を訪ねてみよう。

 昔からの多少曲がりのある細い道の拡張工事をしていた。今の生活と古いものの保存のバランスを取ることは、なかなか大変のことだなと思 いながら歩く。

 艸墓古墳(くさはかこふん)は、住宅地の中にあった。

 場所を、庭掃除中の住人に聞いてみると、艸墓古墳と表示してある石碑の所と言う。何もない。重ねて聞くと、目の前を、奥に入れと言う。30cmもない石垣の上を奥に入ると、古墳の入り口が見えた。

 分かりにくいところを、よそ者に何度も問いかけられて、うんざりしている感じだった。大きな声でお礼を言って古墳に向かった。

 国の指定史跡で、古墳の構造、大きさなどの説明があった。石室を作り、土を盛ったと説明があった。帰宅後で調べてみたら、7世紀前半の物との事。誰の物とも 判らないらしい。桜井市教育委員会の看板だった。

 南になお行く。メスリ古墳、ここは すぐに判った。20m程度の小山の上に石室の上石が露出していた。人が掘り出した跡だ。看板を見ると、学術調査したとあった。4世紀の物、箸墓古墳などと同時代の物、この地方の首長の物との説明があった。 この辺りは、奈良でも、最も古い土地と改めて思う。こちらは県教育委員会の看板。

 談山神社の一の鳥居と町石をみる。この鳥居も初めて拝見。鳥居の両側には、古い家が並び、昔からの家並みが、少し名残を残しているようだ。

 

 

 ゆるやかな登りの、その参道を行くと、青葉の中にお寺が見えた。聖林寺。 昔、和辻哲郎著古寺巡礼で初めて知った十一面観音像のお寺である。

 相変わらず、本堂でなくお蔵に居らした。明治以降にこのお寺さんに来たそうです。古い仏さんなのに、外国人の臭いのない(様に思われる)私好みの、まことに綺麗な仏である。

 お経は何も知らないが、お経は、難しい教義だけの本ではなく、たとえば、阿弥陀経は浄土での仏さんの幻像の描写だそうです。この仏さんも、その1つであるらしい。そう難しい話でなく、極普通の人間が頭で考えて、その通りに作った仏像と思いたい。ただし、もの凄い能力を持った人が作った。

 さくはなの とわににほへる みほとけの まもりてひとの おいにけるかも 会津八一

 1時間1本のバスに乗り、談山神社に向かう。山登りスタイルの客で一杯。たちんぼうの揺れるバス。相当にきつい坂道を、勢いよく登る。

 昔、幼かった頃、母親に連れられ、静岡久能の在所に行くに、静岡駅から木炭車のバスに乗った。久能の山の迫った海岸道路は、高低差のある坂の曲がりくねった道。それを喘ぎあえぎ登って下りての光景が、ぱっと目に見えてきた。

 今のバスは、大きい音を立てるが、喘ぎはない。私たちは、この50年、このいささか古いバスのようによくやって来たと思うと共に、すっかり白髪が増えてしまった。今は亡き母親を思い出した。

 あっと言う間に、談山神社に到着。藤原鎌足を祭る神社である。中大兄皇子と中臣鎌足が、大化改新のクーデター(時の権力者の(物部氏を滅ぼした)蘇我氏を殺す事)の相談したのが、この談山(かたらいやま)だった。

 7世紀、飛鳥当たりに都を作った頃のこと。あの艸墓古墳の主もこの勢力争いの中にあった。

 元々お寺だったのが、明治の廃仏毀釈で神社になった由。本殿をお参り。けまりの庭、13重の塔など拝見。

 

 566mの談山には、御相談所の石碑があった。616mの御破裂山(ごはれつざん)の鎌足の墓所をお参りして、飛鳥石舞台に向かう。さすがに、このお山に登るのは少ないようで、会った人は数人だった。

 石仏のある道を下る。気都和既(きつわき)神社をお参り。所々に家のある鄙びた村落を過ぎ行く。川と山と人の住む家のいい写真になる場所あり。

 

 一昨年歩いた石舞台に出た。ものすごい人。ここを素通りして、先回、行き損なった吉備姫王墓をお参り。猿石を拝見。

 飛鳥駅から、近鉄名古屋へ。

 

 

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