9 出島灯台 匂当内侍の墓 祥瑞寺 光徳寺 本福寺 浮御堂 湖族資料館   滋賀

14km       2004/02/15

その他


 

 祥瑞寺の和尚さんに漸く連絡が付いて、本堂等拝観の約束が出来た。今まで、不在だったり、直接出かけても留守で、留守番のおばあさんのみで埒が明かなかった。また、居初家庭園の拝見の予約の電話を入れたが、家屋改築中で拝見出来ないとのこと。

 冬型の雨の日だったが、祥瑞寺だけでもと言うことで出かけることにした。6年目の訪問となった。

    念願の適いて春嵐の近江路に一休禅師の足跡尋ぬ

 

 6時の3番電車(過去の文章に、「6時の1番電車」の表示があったが、始発が早くなり便利になった)に乗り名古屋に出、新幹線で米原に出て、後は、東海道本線、湖西線を乗り継いで、堅田には、9時に着いた。
 駅前から、旧北国街道、161号線を横切り、真っ直ぐに東に向かい、琵琶湖に出る。堅田内湖に立派な橋が架かり、旧道に到着する新道が出来ていた。堅田漁港を 右に見ながら北に向かう。
 出島の灯台を見る。琵琶湖の最狭部の岬に建つ、明治時代に出来た灯台。4本の柱と中心の真柱の5本足の灯台である。倒壊寸前になったが、地元の人達の熱心な保存運動により、昭和48年に復旧され、灯が点っているとのこと。
 もう少し北へ行くと、野神(のがみ)神社。境内に勾当内侍(こうとうのないし)の墓がある。

 勾当内侍は、新田義貞の妻であるが、夫が足利尊氏と戦い、越前藤島で戦死したと聞くと悲観して琵琶湖に入水 したと言う。

 村人達は内侍を哀れに思い、150回忌の時、塚のあるこの場所に野神神社を建立し、今もしっかりとお守りしているとのこと。

 太平記には、「勾当内侍は嵯峨野の往生院(おうじょういん)のあたりの庵に入り、明け暮れ、仏道修行にはげむ身となった」とあり、入水していない記述である。

 ここも、神社の際に、立派な車道が出来、回りの落ち着いた雰囲気は無くなっていた。

 旧道を、南に戻る。途中、屋根を修理している居初家を見る。

 以前見た外観と変わりない。

 琵琶湖に出て、石積を見る。近江冨士を初めとした湖東の山々を借景した庭を想像する。

 残念だが、拝見は、次の機会とする。

 約束の11時、祥瑞寺訪問。

 一休和尚修養地の大きな石碑があり、門を入る。庫裡に真っ直ぐ石が並び、楓、つつじが植わっている。この門は、一休さんが水を掛けられてもしがみついていた門だな、と思う。

 禅寺特有の庫裡の戸を開き、声を掛けると、和尚さんが出迎えてくれた。早速、上がれとの事。すぐに案内してくれる。

 本堂は、極めて簡素。今日は、お釈迦さんの命日2月15日なので、お釈迦さんの涅槃図が掲げてあった。お釈迦さんが本尊だった。小さな仏さんだった。

 西行さんが、「桜の元でお釈迦さんの死んだ日に死にたい」と、言った日だ。勿論旧暦の2月15日。今日は、まだ、冬の雨の日で寒く、桜もまだ。改めて、「如月の望月の頃」を思った。

 本堂と別棟の開山堂に、華叟和尚と一休和尚の座った木像があった。華叟和尚は椅子に座っているが、足は組んではいない。一休さんは、京都田辺の一休寺の木像を写したとのこと。和尚さんは、華叟和尚が死んだ後、一休さんと仲の悪い兄弟子の養叟(ようそう)和尚が跡を継いだと話してくれた。

 また、一休という名は、この華叟和尚が付けた名前(道号)と言う。

 本堂に戻り、各部屋を案内してくれる。本堂を含め、6室あり、それぞれ使用目的がはっきりしており、著名な画家のふすま絵があった。申し訳ないが、名前は忘れてしまった。

 室町時代の「堅田の大責め」や信長の戦火で焼失し、すべてその後の再建。本堂は昭和8年の再建との事。

 庭は枯山水で、蓬莱山などを現していると説明してくれた。質素な庭である。一休さんが華叟和尚にしっかりと鍛えられた建物と庭だ。

 (お寺には、華叟和尚の頂相(ちんぞう 肖像画)があって、足を組んで(片足を膝の上に置いて)椅子に座って睨み付けている。通常は足を揃えて行儀良く座って居るんだそうだ、その仕来りを破った像があるとのこと。予約の電話でも、この場でも、「頂相」と何回か言ってみたが、和尚さんの反応は何もなかった。余りくどくなるし、初めての人に、見せるものでもない気がして言うのを止めてしまった。)

 一休さんは、22歳から13年間、「堅田こそ禅宗の登竜門」と言われた、祥瑞寺華叟和尚に仕えた。都を逃げ出した無欲清貧の道場暮らしだった。都のお寺は、室町幕府の禅宗重視の政治に巻き込まれ、極めて政治的になっており、一休さん達には、耐えられなかったらしい。 その代わり、貧乏した。

 拝観料400円との事であったが、寸志を用意してあったので、それを置いてきた。

 一休さんは、13年間よく仕えたと思う。食う物も無く、毎日、食う算段 をしていたようだ、仰木峠を越えて都へ良く出かけていたようだ。都で内職もしていたらしい。

 庭の一角に、芭蕉句碑があった。僧も立派な人のようだ。

    「朝茶飲む僧静なり菊の花」

 森澄雄 「秋の淡海かすみ誰にもたよりせず」 の碑があった。

 碑のあった場所は、撮影順から見て、祥瑞寺の庭から光徳寺の庭までの間であったが、忘れてしまった。

 この句碑は祥瑞寺の中にあり、西向きの門を入ってすぐの庭の真ん中に北向きに立っています。  2004.10.21 近所の志賀町の住人 Y.Mさんに教えて頂きました。
 

 光徳寺は「堅田徳兵衛の首」のお寺。浄土真宗のお寺。

 本堂には、源兵衛の頭蓋骨が祀られている。お勤めをしていたので、頭蓋骨はお参りしなかった。

 蓮如が保管して貰っていた御真影を三井寺に引き取りに出かけたが、人間の生首を持ってこいと言われた。困り果てたのを見て、堅田の漁師、源兵衛は父親に自らの首を打たせ差し出したという。三井寺は本物の生首を見て慌てて御真影を返したと言う。

 その親子が祀られ、銅像がある。

 芭蕉門十哲の一人其角の父親の家が「其角邸跡」として残っている。其角は、よく堅田に来ていた。

   「帆かけ舟あれや堅田の冬けしき」

   「婆に逢ひにかかる命や勢田の霜」

 本福寺お参り。蓮如の本を読むと良く出てくるお寺だ。比叡山に追われて、京都の本願寺 から逃げ込んだのが、この本福寺との事。

 「堅田の大責め」の頃であり、浄土真宗再起の本拠地である。

  境内に、芭蕉の肖像碑、句碑があった。

 「からさきの松は花よりおぼろにて」

 「病雁の夜寒に落ちて旅寝かな」 の碑は見つからなかった。(帰って調べてみると、本堂の裏にあるようだ。)

境内句碑

 

 満月寺、浮御堂をお参り。近江八景の「堅田の落雁」の場所だ。

昔は、浮御堂の周囲は、葦が生え、水が綺麗だったが、今は葦もなく、水も濁っている。

 湖東の三上山がよく見えた。

 重要文化財の聖観音座像が収まった観音堂もお参り。

 茶室玉鈎亭(ぎょくこうてい)は浮御堂の古材で造った物との事。

 「比良三上(ひらみかみ)雪さしわたせ鷺(さぎ)の橋」 芭蕉

 「鎖あけて月さし入れよ浮み堂」 芭蕉

 「五月雨の雨垂ればかり浮き御堂」 青畝
 湖族の郷資料館を拝見。拝観料100円であった。

 地元の人達が、室町時代に琵琶湖の権益を制し最大の自治都市であった堅田とそれを築いた堅田衆の栄光の歴史を残し伝えたいと手作りで造った物とのこと。

 祥瑞寺の華叟和尚の頂相の写真もあり、又、句碑、歌碑も纏めてあり、堅田の移り変わりも判りやすく現してあった。堅田の全体を良く纏めてあった。

 尋ねた2,3日後、「当館を広く鶴声してくれ」との葉書を頂いた。

 左は数年前に尋ねた時のパンフレットです。今回はパンフレットはなかった。

 帰りは、京都に出て、いつものラーメン屋によって、遅い昼食を取り、在来線で帰った。3時間程の時間をぐっすりと良い気持ちで寝て、米原駅で1回乗り換えたが、あっという間の名古屋駅でした。

  「「今日はだめ息子が帰る」とメールありてデートは止めて畑耕す」

 

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