11 鳥居本 摺針峠 番場 蓮華寺 番場の忠太郎 醒ヶ井   滋賀

14km       2005/02/27

その他


 

 摺針峠(すりはり)からの琵琶湖と伊吹山を見たくなり、出かけた。愛知県の内は、晴天でしたが、伊吹山が見え出すと曇りだし、鳥居本(とりいもと)に着けば、雪が降っていた。

 近江鉄道鳥居本駅と鳥居本の町並み。昔の中山道である。

 駅も町も変わっていない。

 古い、大きな、白壁の家があった。白が印象的。

 茅葺きの家。今日初めて気付いたが、昔からの家のようだ。

 少し、彦根方面に行った所にも茅葺きの家があった。どうなっただろうか。

 日が照っているのに、雪が、時々舞う。

 昔、大名、使節団、明治天皇も休憩したと言う、茶屋本陣であった、望湖堂。琵琶湖がきれいだ。

 望湖堂は個人名の表札がかかっていた。以前もそうであったかは定かでない。

 摺針の集落を過ぎると、名神高速の側道を行く。中山道の道は、名神高速に取られてしまっている。

 伊吹山がきれいだ。少し探せば、電柱の入らない撮影適地がありそうだ。

 少し寒いが、空域は澄んでいて、気持ちがよい。

 名神高速のトンネルの上が小摺針峠。ここを越えると番場(ばんば)の集落。

 蓮華寺。

 聖徳太子の創建とも言う。鎌倉中期には戦火によって全焼したが、その後一向上人が再興し、寺名を蓮華寺としました。

 南北朝時代に足利氏に敗れた、北条仲時以下432名の過去帳が残り、国の重要文化財にもなっている。、そうです。

 今日は、人出も少ないせいか、お坊さんが、一緒に昼飯を食おうと、こたつに入れてくれました。買ってきた、昼飯のパンと牛乳をほおばった。通いのお坊さんで、檀家は数軒のお寺さんだそうだ。

 以下の話は、このお坊さんの話です。お布施は、表示されただけ置いてきました。お世話になりました。

 北条仲時らの墓がずらりと並んでいる。

 元弘3(1332)年、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の兵に追われた六波羅探題(ろくはらたんだい)の仲時は、この番場の地で一族432名とともに自刃し、当時の住職が弔いました。寺には、戦死者の名を記した過去帳「陸波羅(ろくはら)南北過去帳」があるとのこと。

 あの、婆娑羅大名と言われた、佐々木道世に攻められた。連れてきた北朝の天皇を無事に京都へ返すことを条件に 、切腹したのだそうです。
 

 きっと、432体のお墓があるのだろう。

 一族の果てし自刃もかくならん 紅梅散り敷く蓮華寺の庭  作者不明

 自刃せし遠祖の眠る蓮華寺 散り敷く紅葉流る血の如  朽竹

 このみ寺に仲時軍やぶれきて腹きりたりと聞けばかなしも 茂吉

 蓮華寺の庭の紅葉は血に燃えてあまた武将のいやはてを思う 作者不明

 一向杉。樹齢700年。

 この寺再興のお坊さん一向上人のお墓。時宗のお坊さん。今は浄土宗だそうです。

 番場宿を有名にしたのは長谷川伸の戯曲「瞼の母」の主人公番場忠太郎である。親子縁結びの地蔵尊として参拝する人が多いそうだ。

 なぜ、番場の忠太郎か、長谷川伸に聞いた人がいたそうだ。

 答えは、自分が幼いとき、ここの住職に飯を食わせて貰い世話になったんだそうです。

 右は、お墓で、有名な俳優などの名前が入った石柱で囲まれていた。もちろん、忠太郎は架空の人だろう。 

 茂吉は蓮華寺第49世隆応和尚の門弟であり、よくこの寺を訪れている。茂吉は東北の生まれで、子供の時世話になったお坊さんが、この蓮華寺の住職になったんだそうです。

 「松風の音聞くときは古への聖の如く我は寂しむ」 茂吉

 

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