93 北国街道 駿府城 浮月楼 高校同級会 静岡 9km 2010/06/13
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高校の同級会があり出席。ついでに駿府城址、浮月楼を歩いて来た。
高校時代は、学校と家との間を往復するのみで、家族が生きるのに精一杯の生活だった。奨学金を借りて、授業料は何とか払ったように思う。 そんなことで、駿府城址も、初めてだった。 |
JR静岡駅。 |
駿府城。家康が隠居後、居住した。天守閣はあったというが、直ぐ焼けたそうだ。その後、天守は必要なかった。 城らしい建物は、巽櫓(たつみやぐら)しかなかった。 巽櫓と東御門。 中堀。 |
東御門。 |
内堀。 |
紅葉山庭園。 |
四阿(あずまや)と菖蒲。
荒磯。 洲浜(すはま)と築山(三保と富士山らしい)。 |
水の流れ。
茶席。 |
つたの道。滝を配し、水音がかすかに響く。
静岡の西、宇津ノ谷峠に、鎌倉の古道、「つたの道」がある。 |
築山から、四阿を見る。 |
天守閣跡。
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家康像。
家康お手植えのミカン。 |
外堀。
地震で崩れた石垣修理中。 |
県庁と市役所。 |
浮月楼(ふげつろう)。
幕府を投げ出した、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の住まい。20年住んだという。 今は料亭。 |
断って、庭を拝見。 |
静岡県立静岡工業高校。
2008年 統合廃校となった。新しい土地に移ったという。 この写真は同級会で。 |
昭和32年電気科1組同級会。
私には、良い思い出のない高校時代でした。貧乏でした。よく、授業料を払ったと思う。 友も少なく、静岡の町も知らず、遊んだ記憶もない。学校が終われば、卸問屋に寄り品物を仕入れ、急いで家へ帰った。そんな記憶しかない。 唯一の楽しみは、静岡からの帰りの列車(電車ではない)の最後部、吹きさらしの中で、真後ろから右に見える冬の富士山を用宗まで見ることでした(昔から、左富士といっていた)。今思うと、毎日見たような気がする。3年間続いた。今も、鮮明に目の奥に残るものの1つだ。 映画「女の園」で、同じような構図の富士山のきれいな場面があったよう記憶がある。映画の中身は覚えがないので、記憶違いかも。 生活が苦しいと言っても、多少は、映画は見ていたのかな、と、今になって思う。そう言えば、ただで入れてくれる映画館があった(ただの入場券だったかも知れない)。
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55人中、21人集まる。亡くなったもの10人。
先が短くなったので、1年ごとにやろうという意見が出たが、幹事一任。 |
高校、大学の同級会は喜んで出て行きますが、中学の同窓会は欠席が多い。
仲の良かった友が死んでしまったせいかな。いや、高度成長を支えてきた、大学出が多いせいかも知れない。態度が大きい、威張っている、のが目に付き、また、他の同窓生がそれを認めているのが見える。 私も中学時代は、威張っていて、大学出の連中と同じだったのだろう、と反省している。 自分が嫌になってしまうし、大学での連中に対する、私のコンプレックスが大きいのかも。数十年の住む世界が違うことは、大きな差が生じてしまうらしい。 中学は、静大の付属中学校で、進学校。汽車で通学する生徒が多かった。 中学で就職のつもりだったが、先生と親に説得されて、工業高校に行った。親は苦労したと思う。 高校の勉強は、学校でしただけだった。私は、しっかり覚えるには少し勉強が必要だったが、それは出来なかった。 そして、就職。名古屋に出た。 中学の同級生が沢山大学に行った。私も、職場近くに、国立の名古屋工業大学があり、夜間部のあることを知って受験。どういうわけか合格。 しかし、大学の勉強は、専門の電気は問題なかったが、外国語数学などは、学校の勉強だけではついて行けなかった。今でも試験の夢を見る。卒業証書だけは貰った。 職場に恵まれていた。会社と仲間に感謝した。その後は、仕事一筋でした。 しかし、電気主任技術者試験、税理士試験に挑戦したが、長続きせず成果はなかった。 趣味の謡曲は、50年続いたが、プロにはならなかった、いや、なれなかった。こちらは師匠が良かった。 最大の仕事、それはタバコを止めたことだった。もう、やめて20年以上になる。 サラリーマンを首になってから、短歌を始めた。しかし、こちらも、ぎゅっと伸びる所がない。 しかし、頑張っています。 今後の目標。 喜寿(77歳)に四国遍路に出掛ける。 1.生きていること。 2.足で歩けること。 3.お金を貯めること。 を、頑張ろう。 そんな話をして帰った。 |
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