18 般舟院御陵 相国寺 冷泉家 火の鳥   京都

10km    2004/05/05

京都奈良


 

 2004年5月5日、京都相国寺承天閣美術館にて、「足利義満公600年忌記念 義満と世阿弥の世界」を見に出かけた。

 曇り空でもあり、他に行くことは止めて、東海道本線快速で出かけた。米原乗り換え1回のみ、謡曲の暗記に使い、あっという間の2時間半だった。

 相国寺への地下鉄の今出川駅で、9時半。

 会場は10時始めのため、千本今出川の般舟院(はんじゅいん)陵を尋ねることにした。日曜日は門が閉まっていてお参り出来ないことは知っていたが、今日は祝日、日曜でない。それで、行くことにした。

 門に錠が掛かっていた。往復1時間、良い運動になった。

 途中に、観世町と言う町名、鶴屋「京観世」の菓子屋があった。この西陣の辺りは、能の観世家、観世座、に関係ある土地だ。この後、見ることになるのだが、今日の展示品にも、観世町の図面と写真があった。

 般舟院陵には、能「定家」のシテ、式子内親王(しょくしないしんのう)のお墓がある。まだ、そのお墓を確認していない。

 「定家」は、北国の僧が都に上がり、千本辺りで夕景色を眺めていると、俄に時雨れる。傍らの宿りに避難すると、女が現れ、これは、定家の時雨亭と教え、式子内親王の墓に案内する。早く亡くなった内親王を偲び、定家の執心は葛となって、この墓にまとわりついたと言う。その葛を定家葛(ていかかづら)と言う。などと説明する。女は、自分が式子内親王と名乗り消え失せる。

 やがて僧が弔っていると式子内親王が現れるが、お経の力で成仏する。そんなスジ。そのお墓がここにあると言う。

 式子内親王は後白河天皇の子であるが、小さな墓しかないそうだ。それに、宮内庁の墓所の説明看板には、多くの皇子皇女の名前が書かれているが、式子内親王の名前は無いようだ。

 何か、不幸なことのあった、皇女だったようだ。我が日本国は、今もそうだが、怨霊の祟りを本当に恐れたようだ。

 相国寺総門。
 奥に、庫裡の白い壁が見える。
 法堂お参り。
 承天閣美術館にて、「足利義満公600年忌記念 義満と世阿弥の世界」を見る。

 観世文庫、宗家の面、衣裳、世阿弥直筆の能本があった。

 面では、「慈童」、「狐蛇」、「小べしみ」、「深井」、「若女」があった。「慈童」、「狐蛇」は始めて見た。

 能本は、能のシナリオ、注意書きとのこと。漢字交じりのカタカナだったが、読めなかった。風姿花伝「第六花修」があった。漢字と平仮名の大きな字であったが、これも読めなかった。

 蜻蛉模様の単の法被があった。義満からの拝領品で、最古の能衣裳だそうだ。能「朝長」でしか使用しない、と説明があった。

 どこかに、「世阿弥」はどう読むか問題になった時、義満が「ぜあみ」と読むと決めたとあった。

 相国寺所蔵の義満の肖像画、木像があった。義満の顔はこれだったかと見てきた。
 
 浴室を見る。禅寺によく有る。元々は、体を清潔にするのが目的だったと説明在り。

 開山道を見る。掘った枯れ水路と築山の素敵なシンプルな庭があった。シンプルな物は判りやすくて嬉しくなる。禅宗のお坊さんに怒られるかな。

 水上努が修行したと言う、瑞春院があったが、完全予約制の拝観との看板が立っていた。小説「雁の寺」の舞台のお寺んさん。
 同志社大学に挟まれた、冷泉家の建物は、修理が終わって、門が閉じられ、落ち着いた佇まいが戻っていた。

 藤原定家の子孫で、あの阿仏尼の子の藤原為相(ためすけ)が祖である。為相の歌を元にした、「六浦(むつら)」と言う謡曲がある。

 為相は鎌倉に長く生活し、墓も鎌倉にあった。母親の阿仏尼も訴訟のため鎌倉に行き、鎌倉に住み、鎌倉で死んでいる。鎌倉行きの紀行記が「十六夜日記」。

 京都駅地下一階の待合いに「火の鳥 水時計」があった。初めて知った。

 帰りも、快速。米原で、乗り継ぎ。謡曲の暗記をしてきたが、居眠る方が多かった。

 

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