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a 第1日目 2010/01/31 (日)
経路 −自宅−東京( 新幹線)−新潟(新幹線)−鶴岡(羽越線)−鶴岡市内−鶴岡泊− 歩き距離 17千歩 11.1km 出発 5時半 到着 16時 晴れ 宿屋 ホテルアルファーワン鶴岡
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黒川能に参加して、ついでに、鶴岡、五能線、青森、竜飛岬、函館を回って来ます。黒川能は、8年ぶり。先回は、行ってくるだけで、精一杯だった。今回は、ゆっくり回るつもりです。 | ||||||||||||
豊橋7:01のひかりで出かけた。東京から上越新幹線。
車窓から富士山。 清水トンネルを抜けると雪だった。新潟に近づくと、雪はなくなった。 |
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新潟から、特急いなほ
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電車は、空いていた。もちろん、新幹線を含め自由席。 |
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羽越線から
の日本海
。きれいな風景が続く。
来年は、奥の細道を歩くつもり。その時に歩く海岸。 |
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13:00 鶴岡着。 | ||||||||||||
昼食 たら汁と海鮮丼。 | ||||||||||||
道路には雪はなかった。
1月中旬、何年ぶりかの豪雪があったという。裏道、広場には雪が残っている。 生け垣の上に、板の覆いがある。雪対策だが、板の打ち付けの釘が、1cmほど出たままになっている。理由を何人かに聞いてみたが、判らなかった。 |
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駅前に、「雪の降る町」の歌碑。
作曲の中田喜直(なかだ よしなお)が、知人である菅原喜兵衛宅のある鶴岡で見かけた降雪風景から作ったという。 |
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高山樗牛の生誕地。 | ||||||||||||
鶴 ヶ岡城と城下町。 内川に掛かる千歳橋。 |
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明治の女流作家 田沢稲舟(たざわいなぶね)。生家の前の内川のほとりに
銅像あり。
鶴岡の裕福な医者の娘。明治時代、自由奔放に生きようとした女流作家。樋口一葉と並び称せられた稲舟であったが、出身地鶴岡の人々は故意に無視してきたという。 3歳年上の高山樗牛は、よく面倒を見たという。 病気で、21歳10カ月の短い人生を終わった。 |
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内川に掛かる三雲橋(江戸時代は 三日町橋)。
庄内藩の大手門に通ずる橋。 |
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鶴岡橋。
馬場町のタブの木。 |
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庄内藩校 致道館(ちどうかん)。
見学。 |
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朱子学を藩学とし、荻生徂徠の徂徠学を教えた。 |
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聖廟 孔子を祭る。 | ||||||||||||
講堂。式や会議を行った。
本印刷用の版木。 |
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鶴
ヶ岡城址。
城そのものはない。 |
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藤沢周平作品ゆかりの地。
鶴岡の農家の生まれ。 江戸時代を題材とした作品が多い。 出身地、鶴岡市にあった庄内藩をモデルにしたと言われる架空の藩「海坂藩(うなさかはん)」を舞台にした作品が多い。 |
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般若寺
。
小説 凶刃用心棒日月抄 の 般若寺。 |
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龍覚寺
。
小説 蝉しぐれ の 龍興寺。 小説 蝉しぐれ は 幼なじみが、藩主の側室になり、かなわぬ思い人との下級武士の成長の話。 |
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千歳橋
。
小説 秘太刀馬の骨 の 千鳥橋。川は 五間川。 |
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内川。
小説 蝉しぐれ の 五間川。 |
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致道館
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小説 義民が駆ける の 藩校致道館。 小説 義民が駆ける は、三方領地替えを農民の立場から描いた作品である。 |
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鶴
ヶ岡城。
小説 花のあと の 鶴ヶ岡城。 |
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大督寺
。
小説 義民が駆ける の 大督寺。
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総穏寺
。
小説 又蔵の火 の 総穏寺。 |
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内川(筬橋 おさばし)
。
小説 蝉しぐれ の 五間川。 |
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本町二丁目(江戸時代 七日町
)。
小説 三屋清左衛門残日録(みつやせいざえもんざんじつろく) の 花房町。 |
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夕食は、町の鰻屋で。生ビール飲み、ちょっと贅沢をした。 | ||||||||||||
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b 第2日目 2010/02/01 (月) 経路 −鶴岡−鶴岡(バス)−黒川(バス)−黒川能−黒川能の里「王祇会館」泊− 歩き距離 16.5千歩 10.7km 出発 8時 到着 23時 曇り 宿屋 黒川能の里「王祇会館」 徹夜の行事のための仮眠所
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ホテルの朝食。 午前中、鶴岡市内の名所と芭蕉の足跡を回る。 |
日枝神社 お参り。 |
境内に句碑。 鶴岡在住の俳人 平山路遊の句碑。句は読めませんでした。 芭蕉句碑。 珍らしや山をいで羽の初茄子び 翁 |
羽黒山で7日間参篭した後、山を下り、鶴岡藩士長山重行を訪れて、ご馳走に出てきた茄子を褒めることで挨拶吟とした。 |
境内のケヤキ
。
樹齢330年。 |
長山重行宅跡。
芭蕉句碑。 めづらしや山をいで羽の初なすび 芭蕉 |
内川。
昔の風景 の めがね橋は、大泉橋。 大正時代に、一つ目の橋になった(下の写真の1つ目橋)。 |
内川の船着き場。大泉橋の横にあり。
酒田まで7里、半日、復路1日半。 芭蕉は、長山重行宅に 3泊し、ここから、川舟で酒田に向かった。 |
鶴岡市銀座。商店街。 |
銀座商店街に、旧町名の表示あり。二百人町。 鶴の湯のある町。 |
映画 おくりびと の中で出てくる
、鶴の湯。
映画は見ていない。 営業している気配なし。 |
鶴園橋からの内川。 |
鶴岡が生んだ明治の文豪、高山樗牛像。
「文は是に至りて畢竟人なり、命なり、人生也」の碑。 |
旧西田川郡役所。 |
旧庄内藩主御隠殿(ごいんでん)と庭園。 |
湯殿山の田麦俣(たむぎまた)の山村豪雪地域の民家。 2,3階は養蚕場。兜造という茅葺き。 主人の部屋があったが、4方壁があり密室。静岡久能の、祖父の家が、同じ造りだった。 |
御隠殿の土蔵で、 民具の蔵として使用。 農具、工具、工芸品の展示。
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鶴岡カトリック教会天主堂。
幼稚園経営。 |
風間家住宅 丙申堂。
休館日で見られず。 鶴ヶ岡城下の御用商人として発展し、鶴岡一の豪商となり産業の振興に力を入れた。 |
富樫蝋燭店。
和蝋燭に、絵付け。 |
鶴岡市内から黒川へ。
午後のバスで、黒川へ。30人ほどが乗った。小型バスは、満員、立ちん坊でした。 |
黒川能の里・王祇会館にて受付。
休憩所使用料、食事代、撮影料を払い、腕章を受ける。 その後、凍み豆腐をいただく。 演能は、上座、下座の2箇所で行う。それぞれ作る凍み豆腐の作り方が違うとのこと。その2箇所分の凍み豆腐をいただいた。 |
王祇会館の内部。
こたつ、ストーブの炊かれた休憩所。今夜の仮眠所。 ゴザは引いてあるが、床である。 |
王祇会館の周辺の風景。
雪は50cmほど積もっている。 |
私は、上座。
先回は、個人の農家だったが、今回は公民館でした。 |
2月1日の未明、春日神社の神霊が宿る王祇様を上座、下座それぞれの民家(当屋)に迎え、座衆一堂に会しての座狩(総点呼)があり、振る舞いが行われ
る。
ここまでは参加しませんでした。 夕刻から幼児が勤める「大地踏」で黒川能は始まり、式三番、続いて能5番、狂言4番が夜を徹して演じられる。
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すでに、舞台は出来上がっている。
蝋燭の火入れ。 |
舞台の前に神棚。
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春日神社の神霊が宿る王祇様。 |
夕食。日本酒は飲めなかった。結局、家まで持ち帰った。 |
黒川能始まる。
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18:00 神事始まる。
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神事が終わり、神棚も撤収された。
幼児が勤める大地踏が始まる。 |
祭儀的な演目である、翁の能。
式三番は、祭事のはじめに演じられるもの。 露払い役の千歳(せんざい)、天下太平を祝福する翁(おきな)、五穀豊穣を祈願する三番叟(さんばそう)。 |
能 難波。
現在の能と、少し内容が違う気がした。十分な理解は、できなかった。 |
狂言 末広。 |
狂言 末広 で、カメラの電池が無くなる。大失敗。
しかし、すでに、10時。能1番、狂言1番を見て眠くなり、休憩所に戻ることにした。 あと、能4番、狂言3番あり。明け方になるという。 雪は降っていなかったが、真っ白の田圃の中の暗い黒い道を歩いて、休憩所に戻る。カメラの充電に2時間。会場に戻ること諦めた。 すでに、数人が寝ていた。防寒の支度は十分のため、寒くはない。明け方まで寝る。 |
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c 第3日目 2010/02/02 (火) 経路 −黒川−鶴岡(バス)−酒田(羽越線)−秋田(羽越線)−東能代(羽越線)−能代(五能線)−能代泊− 歩き距離 6.5千歩 4.2km 出発 8時 到着 17時 雪のち曇り 宿屋 能代タウンホテルミナミ
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8:00 朝食。
味噌汁がうまかった。 今日は、能代まで移動する。バスに乗る前に、春日神社をお参りしよう。 |
王祇会館の前の風景。雪が降り続く。 |
春日神社 お参り。 |
春日神社境内に法光院。お参り。
参道、階段、凍り付き滑る。雪の積もっているところを拾って歩く。 2日の神事が、神社で始まっていた。 9:30 バスに乗る。数人のお客。鶴岡で、それぞれ、次の目的地に。 |
10:52 普通電車で 鶴岡〜酒田。 車窓からの雪景色。飽きない眺めです。 |
11:28 酒田駅。
駅前で、うどん。
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12:39 普通電車で 酒田〜秋田。 |
14:36 秋田駅。駅前を散歩。雪はなし。
15:28 普通電車で 秋田〜東能代〜能代。 |
16:33 能代駅。雪は 降っていないが、冷える。マイナス10度近い。
道路が凍り、滑る。へっぴり腰でホテルへ。 |
雪が降り出す。
ホテルの食堂で夕食。 |
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d 第4日目 2010/02/03 (水) 経路 −能代−川部(五能線)−青森(羽越線)−八甲田丸−善知鳥神社−青森泊− 歩き距離 12千歩 7.8km 出発 7時 到着 17時 雪のち曇り 宿屋 ウィークリー翔(しょう)ホテルチトセ
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7:30 雪の朝。
靴に滑り止めを着け、駅へ。 見ること、なす事、初めてのことばかり。 |
雪の能代駅。 8:02 五能線普通ジーゼルカーで 能代〜川部 4時間の旅。 同年配のおじさん二人組と乗る。おじさんたちも五能線に乗るのが目的。
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車内に、若い女性の二人組と地元の男おり。話掛ける余地なし。
あと、2人ほど地元の人。 3両仕立ての列車。 左の窓から、日本海を見て行く。 |
8:25 東八森駅。 |
8:35 八森駅。 |
8:39 あきた白神駅。 |
9:09 十二湖駅。 |
9:25 ウェスバ椿山駅 |
9:40 深浦駅。 |
千畳敷駅あり。
その付近の写真。 降りると、次の列車は17時まで無しのため、降りず。 |
10:26 北金ヶ沢駅。 |
10:44 鰺ヶ沢駅。
能代から乗ったおじさん二人組が降りた。 女二人組は、五所川原駅で降りた。 |
連結器は、雪こびり付く。 |
11:57 川部駅。 |
12:36 青森駅。
新幹線の工事中。今年12月開通という。 2010.12.16 新幹線駅は、少し西側に出来たという。 |
青森駅から青函連絡船乗り場方面を見る。
津軽海峡冬景色の歌碑。 |
青函連絡船メモリアルシップの八甲田丸。
連絡船の停泊した箇所に係留されている。 |
ブリッジ。
3等客室。 |
車両甲板。
エンジン室。 プロペラを回すエンジン。 1600馬力ジーゼル 8基。
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青森の町並。 青森観光物産館。 |
善知鳥神社 お参り。
町の真ん中に。
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善知鳥神社は、青森市が、善知鳥村と言われた頃、奥州陸奥之国外ヶ浜鎮護の神として創建され、また、坂上田村麻呂の東北遠征の大同2年(807年)に再建された。
このあたりに、昔、善知鳥沼があった。 安潟(やすかた)といわれ、河川が流れ込み、周囲5〜6里の湖沼であった。また、この潟に入る舟は、暴風雨でも絶対に安全であった為、善知鳥神社と共に漁師に敬われた。 しかし、横内城主が外敵を防ぐため、河川の流れを変えたりしたため、次第に干上がり、干拓された。 現在、安方の地名が残る。 |
殺生を続けた、外ヶ浜の漁師が懺悔する、 謡曲 善知鳥 の旧跡。
陸奥の外ヶ浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとうやすかた 定家 |
菅江真澄(すがえますみ)
の歌碑。
うちなびくたむけのぬさもふりはへてこうごうしくも見ゆるみず垣 のどけしなそとがはまかぜ鳥すらも世にやすかたとうとう声して 菅江真澄 江戸時代後期の旅行家、博物学者、歌人。生まれは、三河国渥美郡吉田の人という。 真澄は、漂泊者であった。永年、東北を漂泊した。とくに秋田領内が気に入ったらしく、最後は角館郊外で病み、角館の知人宅に運ばれて息をひきとった。 生前、自分のことは一切語らなかったので、正確な年齢は判らないらしい。 菅江真澄を高く評価したのは、民俗学の創始者である柳田国男だった。柳田は真澄を自分の学問の先覚であるようにして敬愛したという。 |
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e 第5日目 2010/02/04 (木) 経路 −青森−蟹田(津軽線)−三厩(みんまや 津軽線)−竜飛岬(バス)−三厩(バス)−蟹田(津軽線)− 函館(海峡線)−函館山−函館泊− 歩き距離 16.6千歩 10.8km 出発 5時半 到着 20時 雪のち曇りのち晴れ 宿屋 ホテル ウイングス
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青森駅 津軽線ホーム。
雪で遅れている。 蟹田の乗り継ぎを心配したが、鉄道が単線のため、1箇所で遅れるとすべて遅れるようだ。安心する。 6:03 普通電車で 青森〜蟹田。海峡線は、蟹田の先まで津軽線を使うため、電化されている。
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蟹田駅 7
:00到着。
横なぶりの雪。 7:17 普通列車で 蟹田〜三厩(みんまや)。ここからジーゼル。定時出発。 |
津軽今別駅。海峡線の駅。 |
7:56 三厩駅。 8:06 バスにて 三厩〜竜飛漁港。 外ヶ浜町のバス。終点まで乗客1人。料金200円。 雪の中を、制限速度いっぱいで走る。タイヤのスリップはない。 |
8:30 竜飛漁港到着。 雪が激しい。雪掻きは、年寄りばかり。 |
国道339号。 おばあちゃんに話しかけられ、しばし休憩。 |
いよいよ、階段の国道。 人の足跡無し。 ゆっくり足場を確かめ、手すりにしがみつき登る。
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9:10 階段の国道の終点。 あと、50mで、車道の国道に取り付く。 |
三厩村立竜飛中学校跡地に、蛍雪の碑。 |
太宰の道 、龍見橋。 |
函館要塞重砲連隊第2中隊の表示。 吉田松陰詩碑。 |
吉田松陰。
江戸末期、長州藩、攘夷志士の吉田松陰は、後に池田屋事件で客死する宮部鼎蔵と、この地を訪れている。 竜飛崎に立って、「狭い津軽海峡を外国船が堂々と往来するのを許しているのは、日本の存亡にかかわる重大なことである」といっている。 |
佐藤佐太郎歌碑。 陸はつる海の光に草山は黄菅の花の輝くあはれ 佐藤佐太郎 アララギ派の写実主義を受け継ぎながらも、叙情ある歌風をきりひらいた。 感傷を嫌い、常に空の遠くに視線を放つ寡黙な人は、孤独な魂をもつ天才である、との、尾崎左永子の新聞記事を読む。 |
大町桂月文学碑。 |
川上三太郎句碑 写真無し。
龍飛岬立てば風浪四季を咬む 川上三太郎 |
竜飛岬から日本海方面 と北海道方面を見る。 |
竜飛崎と竜飛崎灯台。 |
津軽海峡冬景色の歌碑。
大久保橙青の句碑。 竜飛崎鷹を放って峙てり 橙青 |
竜飛漁港と三厩の集落。 |
観光案内所竜飛館 元奥谷旅館。 |
太宰治文学碑。
太宰治は、津軽の人。 諧謔的、破滅的な作風で、織田作之助、坂口安吾、石川淳などともに新戯作派、無頼派とも称された。大学時代より自殺未遂、心中未遂を繰り返し、1948年(昭和23年)玉川上水にて山崎富栄と入水。 |
民宿、売店すべて締めてあり、休むところなく、駅へ戻ることにした。 10:30 バスで 竜飛漁港〜三厩駅。 11:00 三厩駅。ストーブを付けてくれた。 2時間、暖かく過ごせた。 駅員さんが、昼飯の心配をしてくれた。お礼を言って断った。 |
三厩駅に義経北行伝説の張り紙あり。
三厩には、義経寺があり。 義経が、観音さんから馬3頭をやるといわれ、その馬を貰ったという、大きな岩があった。三厩岩という。 バスから見え、運転手が説明してくれた。 八戸にも北行伝説があり、帰りに尋ねるつもり。 |
12:53 普通列車で 三厩駅〜蟹田駅。 |
行きに、雪の中に見た、津軽今別駅。
津軽今別駅に停まる海峡線特急がある。 予定より、1本速い特急に乗るので、蟹田まで戻る。 |
13:46 特急白鳥で 蟹田〜函館。
雪で、少し遅れている。 |
海峡線。
新幹線仕様で出来ている。レール枕木は、三線式スラブ軌道だそうだが、確認できず。 |
トンネルの全長 53.85km。通過時間 30分。
トンネルの海の下部分 23.3km。 海面下 240m(海水140m 土被り100m)。傾斜 12/1000。 軌道 三線式スラブ軌道。 |
北海道側の風景。
函館山がくっきりと。 |
函館駅前。
雪のない路面あり。触っても、暖かくもない。だが、暖かいのだろう。 |
函館山の夜景。
観光客は、中国人のみだった。これにはびっくりでした。 次の日は、雪で函館山は見えなかった。 |
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f 第6日目 2010/02/05 (金) 経路 −函館−朝市−五稜郭−中島町安売り市場−啄木小公園−立待岬−函館公園−赤レンガ倉庫群−函館泊− 歩き距離 25.6千歩 16.6km 出発 9時 到着 17時 雪のち晴れ 宿屋 ホテル ウイングス
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朝から雪。 9:10 土方歳三最期の地碑。35歳だった。 宿の近くにあった。 |
駅に戻り、市電1日乗車券を買う。 |
9:40 函館朝市。 |
駅前の雪のない歩道に、雪が降っている。 右 前日の夕方。 |
市電使用 函館駅前〜五稜郭公園前。 10:40 五稜郭タワーの展示。 薩長先遣隊。 |
幕府方遊撃隊。 |
箱館戦争供養塔。 |
五稜郭跡。 |
函館奉行所再建中。今年完成。
兵糧庫と大砲。 |
市電使用 五稜郭公園前〜堀川町。 11:30 中島町安売り市場を見る。市民の市場のよう、駅前の朝市は観光用? 市電がないので、歩く。途中、中華の昼食を食う。 |
12:30 啄木小公園。
このあたりは、ハマナスの咲く、啄木の好んだ海岸だったという。 啄木像。像の下に歌碑。 潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇(はまなす)よ |
西条八十が啄木に捧げた詩。
眠ゐし君に捧ぐべき矢車草の花もなくひとり佇む五月寒立待岬の波静かおもひでの砂ただひかる 捧啄木 西条八十 |
砂山の砂に腹這ひ初恋のいたみを遠くおもひ出づる日 啄木 片平庸人(つねと) 北の海にび色にかびろく雲ひくくまろし砂丘見のかぎり茫茫餓えがらすそが雲の上 ただ あるく ばっさ ばっさ ナ 片平庸人 詩人。糸魚川の蒲池小学校教員を務めた。明治35年〜昭和29年没。 |
土方歳三函館記念館。石川啄木函館記念館の看板あり。入らなかった。
バス使用 啄木小公園〜函館駅。 市電使用 函館駅前〜谷地頭(やちがしら)。 |
13:10 住吉町共同墓地。 |
石川啄木一族の墓。
啄木は、4ヶ月程度の函館住まいだったが、家族を呼び寄せ、友に恵まれ、幸せな生活だったという。死後。ここに葬られた。 |
歌碑 二つ。 郁雨 蹣跚(まんさん)と夜道をたどる淋しさよ酒はひとりし飲むものならず |
宮崎郁雨(みやざきいくう) 啄木墓地の隣に墓。石川啄木を影で援助し続けた人物で、石川啄木の友人、そして啄木の義理の弟(啄木の妻の妹と結婚した)。石川 啄木一族の墓設置だけではなく、貧しかった啄木が函館にやってきた際に経済的な援助を行って啄木に尽くした。 |
砂山影二 わがいのちこの海峡の浪の間に消ゆる日を想ふ 〜岬に立ちて 砂山影二 函館で活動した歌人で、石川啄木に強く影響された人物であるが、20歳で青函連絡船から投身自殺した。 |
立待岬。 わずかな足跡があったのみ。我が足跡のみ大きく多い。 |
与謝野寛、晶子歌碑。 浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土 与謝野寛 啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと 与謝野晶子 与謝野寛は函館図書館創設者岡田健蔵の親友宮崎郁雨を、与謝野晶子は岡田健蔵と石川啄木を詠った。 |
市電使用 谷地頭〜青柳町。 13:50 函館公園。 |
函館公園内に。石川啄木歌碑。 函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花 啄木
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青柳町の石川啄木の居住地跡。 見晴らしのよい、高台の一角にある。 |
亀井勝一郎の文学碑。 人生邂逅し開眼し瞑目す 亀井勝一郎 |
青柳町付近のあさり坂。 |
14:20 金森赤レンガ倉庫。
店を開いている。 |
函館港。 |
15:00 函館市文学館。
市電使用 末広町〜函館駅前。 朝市で夕食をと思ったが、雪が降り出した。諦めて、スーパーで夕食を買って、ホテルで食べた。 |
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g 第7日目 2010/02/06 (土) 経路 −函館−八戸(海峡線東北本線)− 本八戸(八戸線)−八戸(八戸線)−東京(新幹線)−豊橋(新幹線)−自宅− 歩き距離 8.4千歩 5.5km 出発 6時半 到着 19時 曇りのち晴れ 宿屋
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函館駅のホーム。 7:00 特急白鳥 函館〜八戸。 |
ポイントと雪掻き作業員。 |
9:42 三沢駅。 |
9:55 八戸駅。
在来線のホーム。 本八戸駅に向かう。 10:16 普通気動車ジーゼルカー 八戸〜本八戸。 |
10:25 本八戸駅。 |
龗(おがみ)神社 お参り。
義経の北行伝説の地。平泉で死なず脱出し、八戸に上陸・滞在し、竜飛岬から北海道に渡り、樺太、モンゴルへと移ったという。 そして、ジンギスハーンになったという。
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おがみ神社は、平泉時代の源義経夫人・久我(こが)御前が葬られた場所といわれている。
おがみ神社には、かつて八戸での義経一行の記録が記されている「類家稲荷大明神縁起」が所蔵されていた。現在は市立図書館に。 久我御前が生前使っていたといわれる手鏡は、おがみ神社に所蔵されている。 このほか、館越(たてこし)、小田(こだ)八幡宮、新羅(しんら)神社、弁慶石、帽子屋敷、矢止めの清水、など、義経の関係したところがあるという。 |
本八戸駅で、ラーメンを食べて戻った。
11:41 普通列車で 本八戸〜八戸。 |
八戸駅と駅前の町並み。 |
新幹線ホーム。
12:05 はやて 八戸〜東京 15:08が、雪で、30分以上遅れ到着。 太平洋側は、雪は積もっていなかった。秋田新幹線が遅れていたと思う。 16:04 こだま 東京〜豊橋 18:16到着。 豊橋は、暖かかった。 |
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