27 一条戻橋 晴明神社 西陣会館 賀茂川 枳殻邸   京都

14km    2008/03/29

京都奈良


 

 京都、枳殻邸へ行ってきた。

 枳殻邸で元気で、凄いおばあちゃんに会いました。すっかり、尻をたたかれて帰ってきた。

 これが、歩くことの良いことの1つ。今日は満足。

 一条の菅原院天満宮お参り。菅原道真一族の屋敷跡という。菅原道真誕生の地とも伝えられている。

 道真が産湯を使った井戸があった。

 京都市内には、文子天満宮、菅大臣神社もあるという。

 虫籠窓と格子の町家の澤井醤油本店。

 上京区中長者町通新町西入にあるというが、今日は、たまたま見付けた。

 しかし、お客が沢山いた。何で知っているのだろう。

 平成の一条戻橋。

 京都の洛中洛外の魔界との渡橋。洛外は、葬送の地だったという。

 どんな理由か判りませんが、有名な橋だそうだ。

 10世紀の漢学者・三善清行の葬列がこの橋を通った際、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた子・浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返り、父子が抱き合ったという。で、戻橋という。

 平家物語の源氏の渡辺綱の話。夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれた。それを引き受け馬に乗せたところ、女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行った。綱は鬼の腕を太刀で切り落として逃げることができた有名な話がある。

  戻橋には、陰陽師 安倍晴明が、写真のような醜い式神を石びつに入れて戻橋の下にしまっていたと「今昔物語」にあり、橋に立って願い事をすると、下にいる式神が人の口を借りてお告げするという『橋占い』の場所という。

 以前の一条戻橋。共に、近くの晴明神社の境内にある。

 晴明神社。

 平安時代の陰陽師、当時の知識人、占い師の安部晴明の屋敷跡。

 厄除桃。

 桃山時代になるとこの橋の付近は罪人のさらし場となり、刑場への引き回しの通り道とされ、あの有名な千利休も秀吉の命で切腹した首が晒された場所という。

 石碑 「千利休居士聚楽屋敷趾」。

 安部晴明の映画があった。それで有名になったのかな。

 西陣織会館。

 外国人だらけであった。トイレも、外国語の案内のみで、日本語はなかった。

 西陣織の実演をしていた。

 「京の川づくり 鴨川公園植樹」の石碑があった。鴨川の河川敷 。

 一条から七条まで、鴨川の河川敷を歩いた。暖かい日で、人出が多かった。

 桜は、満開直前。

 渉成園 枳殻邸。

 入場して、一服中に、声を掛けられた。

 85歳のおばあちゃんです。

 重たいカメラのリュックと三脚を持って、しゃっきりと立って颯爽と歩く人です。

 健康で、時間があって、お金があって、毎日、一人で生きて歩いている。

 風呂は銭湯に行く。雨の日は空いているので大好きだという。

 もう、旦那が亡くなって、一人暮らしは、40年という。息子からは、時々、電話があり、嫁さんからは、旬の物や安い物の情報提供がある。気にしてくれるだけで幸せという。

 話の内容からすると、写真は40年、プロの先生に就いているらしい。フィルムは、ポジフィルムで、良い物は引き延ばしているらしい。

 良い人に会った。歩くことのご利益です。みんなに宣伝し、みんなを誘って歩こうと思う。

枳殻邸の建物。
桜など。
 枳殻邸の名物。

 碧玉の石幢(せきどう)。

 普通の石灯籠と違っている。なぜ、碧玉というか判らないそうだ。

 塩釜。

 もとは井戸だった。今は涸れている。形が塩釜に似ているので塩釜。

 塩釜の手水鉢。

 石の宝塔の塔身を手水鉢にしたもので、鎌倉時代の物。

 源融(みなもとのとおる)ゆかりの塔

 嵯峨天皇の皇子の左大臣源融、源氏物語の主人公光源氏のモデルという。この人の供養塔。

 9世紀末に嵯峨天皇の皇子源融が奥州塩釜の風景を模して作庭した六条河原院の故地とされる。付近の塩竈町や塩小路通などの地名は、その名残りという。しかし、最近の研究によれば、伝説の範囲らしい。

 謡曲「融」。源融の舞台。

 いつもの通り、ラーメンを食べる。

 朝は、青春キップの期間で春はいつも立ちん坊の東海道本線を、乗り継ぎ出かけた。案の定、立ちん坊だった。

 夕方も、東海道本線の乗り継ぎで帰った。座れた。

 

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