橿原神宮 畝傍山 神武天皇陵 香具山 藤原京跡 耳成山   奈良

14km          2002/03/03

京都奈良


 

 久しぶりに、奈良の大和三山を回遊をしてきた。14kmの道のり。以前、手に入れてあった近鉄の「てくてくまっぷ」の道順で歩いた。

 橿原神宮前駅の西口を出て、橿原神宮に向かう。朝早いので、まだ、店も閉めている。神社境内では、竹箒で掃除をしていた。玉砂利が綺麗に仕上がっていく。南門から入り、本殿をお参り。本殿の前は、砂利の大広間だ。

 北門を出て、山道に入る。緩やかな道。死火山だそうです。朝早いのに、何人かの人とすれ違う。 歩く人は早起きだ。山の道だと、気楽に挨拶が出る。町の中だと、挨拶が口から出て来ない。

 標高199.2mの三角点あり。木立の間から、飛鳥、藤原の古い都の町が見え、遠く、葛城山、二上山も見える。

 看板に「香具山は畝傍を愛し(おし)と耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし 古昔(いにしえ)も然にあれこそうつせみも嬬(つま)を争ふらしき」中大兄皇子の歌。

 久松先生の本には、「愛し→雄男し(ををし)」となっていて、「香具山は畝傍山を雄々しい山であるとして、耳成山と妻になるように争った」と解説がありました。

 男女が逆である。いろいろ考え方がある所だそうです。又、額田王との三角関係を考えて詠んだとする事は拘泥しないでよい。との記述があった。

 畝傍山を西に下り、畝火山口神社をお参り。

 山本の大師堂をお参り。弘法大師は、水、井戸、杖など水に関係することが多いと思う。四国では、満濃池と言う、大きな人造湖があった。

 神武天皇陵をお参り。武力で”土蜘蛛”を退治しながら、近畿に初めて入った天皇で、大和国畝傍の橿原宮で即位した初代の天皇。鉄の武器を携帯した軍隊だったのだろう。

 近鉄線路を越え、本薬師寺跡に立ち寄る。大伴旅人「忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため」の歌碑があった。この辺りから見ると、どれが香具山か判らない。藤原京からは、これは香具山と、はっきり見えることだろう。

 南浦の集落の細い道を通り、香具山へ。看板に有名な持統天皇の「春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山」の説明あり。

 頂上で、白の上着を着た若い人たちが10人程度、整列して大きな声を出してお参りしていた。

 里の裏山という感じの山であった。

 南から上り、北に下りた。天香山神社をお参り。古い簡素な社。

 柿本朝臣人麻呂の「ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも」の新しい石碑があった。

 藤原京跡。大極殿跡に説明看板あり。公園に整備されている。子連れの家族が沢山遊んでいた。香具山がはっきりと確認できた。ここが「白妙の衣」の歌を詠った場所だろう。

 7世紀末、天智天皇の娘で、天武天皇の妻の持統天皇は、大和三山に囲まれたここに、都を遷し、平城京に遷るまで数年を過ごした。

 大和朝廷が確固たる基礎を固めた時期。「白妙の衣」の歌も詠える心境だったと思う。

 持統天皇は、熊野詣30回以上、三河の宮路山にも足跡を残している。又、父親を敵とし、夫と吉野に隠れ、壬申の乱を潜り、息子の皇太子を押し退けて天皇になった、したたかな女傑。

 そのような事を思い巡らし、今歩いてきた高殿の集落とその後ろの香具山を見ると、長い時間が経っているとも思うし、又、遠い昔の藤原京に居るとも思える。

 近鉄を横断し、耳成山へ。「耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ」(我妹子がここに来て池に飛び込んだら水は涸れて命を助けてくれればよかったのに恨めしい)の池は、耳成山の西にあったらしいが今はない。

 南側のかんがい用のこの池を見ながら、上り始める。案内地図を見ると、右回りに一回りして、頂上に至る散歩道らしい。

 標高139mは、三山の最小高さ。三角点を確認。

 近鉄八木駅前で、奈良の漬物を買い、久しぶりに近鉄特急に乗る。

 

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