16 千本えんま堂 式子内親王墓 一乗寺下り松 八大神社 詩仙堂 巨椋神社 地蔵堂   京都

11km    2003/08/13

京都奈良


 

 久しぶりに、京都へ出かけた。式子内親王墓、武蔵の一乗寺の決闘、天智天皇の足跡のある巨椋池周辺を歩いてきた。JR山科駅で降り、地下鉄で、北大路名で行き、バスに乗る。
 千本えんま堂の閻魔山の顔を忘れたので、寄り道する。無言劇の狂言を以前見に来た事がある。

 大きな目のえんまさんをお参り。庶民の閻魔さんだ。

奥の狂言の舞台になる建物の裏に、石の地蔵さんが並んでいた。お参り。

 桜の花の芯から双葉の芽が出て、それが普賢菩薩が乗っている象の牙の形に似ているところから名が付いたという普賢象桜があった。

 戸は開いていたが、守衛さんは見えず、庭師が剪定をしていた。式子内親王の墓は、五輪塔形式のささやかなお墓で、陵外にあると思っていたが、見つける事は出来なかった。庭師に聞いてみれば良かったと後で反省した。

 ここは、定家時雨亭の跡と言われ、式子内親王の五輪塔があって、後に般舟院陵となったようだ。謡曲「定家」では、式子内親王と定家の恋の物語だが、「・・・石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひまとい形も見えず候」、「これは式子内親王の御墓にて候。又この葛をば定家葛と申し候」、と言う問答がある。

 式子内親王は後白河天皇の子で、二条、高倉天皇、以仁王と兄弟であるが、子供の頃、賀茂の斎院となり、病気になって、退下。武家の台頭の頃で、平家台頭、以仁王の乱、平家滅亡を見てきた人。華やかな宮廷生活はなかったようだ。墓というこの石塔も陵の内にない。なお、宮内庁の陵墓の説明看板には、式子内親王の名前はなかった。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの よわりもする」  式子内親王

 
 北大路に戻り、一乗寺に行く。バスの1日乗車券500円という切符があるようだ。気付くのが遅かった。

 この地区は始めての訪れ。少し北の修学院の辺りは、比叡山から下りてきた時歩いた事がある。

 八大神社の鳥居があり、その近くの一角に、4代目の若い松の一本松の塚があった。一乗寺と言う名前は、南北朝時代まで、天台宗のお寺があり、その名前だけが残った、と説明あり。

武蔵、一乗寺下り松の吉岡一門との決闘の場所だ。

  「一人にて武蔵闘いし下り松今ある若木は四代目と言う」

 八大神社をお参り。坂の途中で、侍姿の若者に会う。何かイベントがあるかと問うと、武蔵の神社だからこの格好をしていると回答あり。

 

 武蔵の銅像。又、決闘当時の松の枯れ木が祀られていた。
 詩仙堂丈山寺お参り。禅宗のお寺さん。ほぼ、江戸初期の創設のままだそうだ。地震でも壊れず、よく持ったと言う感じの柱の細い建物だった。秋の紅葉が良さそうだ。
 残月軒、坐禅堂があった。手入れされた庭に筧があり、心地よい音をたてていた。
 巨椋(おぐら)池の東の位置に、小倉の地がある。叡山電鉄、京阪、近鉄を乗り付いて、行った。鉄道は効率よく移動できる。
 巨椋(おぐら)神社お参り。西の鳥居には子守神社の石碑があった。地元の人は子守神社と言ってるとの事。南の鳥居に巨椋神社の石碑があった。ここは天 智天皇の足跡がある地であるが、元々、交通の要衝だった。昔はここから西は、巨椋池であり、明治になって、埋め立てられ広大な田圃になった。

 文徳天皇の子、惟喬親王が子供愛護の気持ちで創建したと説明があった。

 隣の地蔵院お参り。
地蔵院の境内に、地蔵院歴代上人の墓の 左隣に、天智天皇と読める墓のような石碑があった。
 

以    上  TOPへ戻る