10 松尾大社 勝持寺 十輪寺 醍醐寺三宝院 随心院 坂上田村麻呂墓所 諸羽神社 四宮河原 小町寺 貴船神社

1993/09/09 作成 2003/06/05

西行・一休など    能舞台の名所・旧跡へ


 

 松尾大社お参り。謡曲では、「松の尾」と言う名でよく出てくる。 「善界」「融」「正尊」「百万」など。

 渡来人秦氏の神さん、酒造り、農耕の神様。京都で1番古い神社との事。

 花の寺、小塩山(おしおやま)勝持寺お参り。桜の名所で、昔から花の寺と言われている。西行法師は、この寺で出家した、西行桜がある。謡曲「小塩」、「融」等に、大原山、大原、小塩の地名が出てくる。
 十輪寺をお参り。業平の生涯の思い人だった藤原高子(二条天皇后)が大原野神社(藤原氏の神、春日大社の分霊を祀る)に詣でた時、塩焼きをして、 その紫の煙に恋慕の思いを込めた。后はこれを見て密かに涙を流したそうだ。謡曲「雲林院」がある。

 業平が晩年に住み、業平寺とも言われている。境内に、業平墓、塩竃の跡などがあった。

 南に下がって、醍醐寺三宝院お参り。謡曲「藤戸」の藤戸石がある。源氏の武将、佐々木盛綱が岡山の藤戸で、浅瀬を教えた漁師を殺した。

 謡曲では、「浮洲の岩のうえにわれを連れて行く水の。氷の如くなる刀を抜いて胸のあたりを刺し通し刺し通さるべば肝魂も消え消えとなる処を。そのまま海に押し入れられて千尋の底に沈みしに・・・」とある、 浮洲の岩が藤戸石。ひどい話であるが、結果、仏の力で成仏できれば、怨念も晴れ、めでたしめでたしである。我が国は、むかしから怨霊の國だ。写真禁止のお寺山のため、下手な絵を入れておく。

 山科の小野の随心院をお参り。伏見の欣浄寺に住んでいた深草少将が小町の元に百日通った所が、この随心院で、今、「小町化粧の井」の辺りに住んでいたそうだ。7kmほどの距離で、毎夜通うのは大変だったろう。  写真 中:小町化粧の井 右:小町塚
 冷たい小町の元に通った日毎に榧(かや)の実を置いてきた。99夜目に、後1夜残して死んでしまう。小町は、榧の実を小野の里に蒔き、99本の木があったが、今は、1本のみ残っているそうだ。

 謡曲「通小町」は、少し変わっている。前場は市原野(今の小町寺、小町が死んだ土地)の女の木の実尽くしだけ。後場は 幽霊の小町が受戒を頼むのに、少将がこれを拒む。通った数は車の榻(しじ)に書き付ける。少将に問いかけると、百夜通いの様を恋しさ、恨み、優雅さ、すごさを織り交ぜた名文句 で語る。勿論、最後は2人共に成仏する。 写真 左:文塚 中:小町座像 右:榧の古木

 山科栗栖野(くりすの)の坂上田村麻呂墓をお参り。8世紀末、田村麻呂は征夷大将軍になって、20万の大軍で、陸奥を平定した。時の天皇からこの地を与えられ、甲冑姿で都に向かって葬られたそうだ。今も、都の守りを担っている。 謡曲「田村」がある。
 山科四ノ宮の諸羽神社お参り。謡曲でよく出てくる、「四の宮」である。仁明天皇第四皇子・人康(さねやす)親王(872年没)の山荘があったと伝えらる。盲目の琵琶の名人 だった。「鸚鵡小町」「盛久」「鳥追舟」「竹生島」に出てくる。
 四宮河原。謡曲「盛久」に「此処は誰をか松阪や四ノ宮河原四つの辻。これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関守も、今のわれをばよも留じ」とある。「これやこれ」は盲目の琵琶の名人、蝉丸の歌。なお、松阪は日岡峠の登り口で、今の日ノ岡駅辺りである。
 鞍馬通りの市原野の小町寺(補陀洛寺)をお参り。小町が死んだ処である。こぢんまりした本堂。
 小町供養塔、深草少将供養塔あり。御白河法皇の「大原御幸」の時も、補陀洛寺の旧跡叡覧あってと平家物語にある。小野小町の生まれは、秋田の雄勝町小野と言い、そこに幾つかの旧跡がある。
 貴船神社お参り。謡曲「鉄輪」の女房が貴船神社に願を掛け鞍馬道を丑の刻詣でで毎日通ったが、鉄輪があまりに重たく、いつも休んだ岩があったとの事。真面目だが、笑える良い時代だった。深草少将より長距離を行ったのだから、休んだ岩があってもよい。貴船川には桟敷が懸かり食事していた。
 

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