4 東京 湯島聖天 柳の井 湯島天神 弁慶鏡の井 五条天神 清水観音堂 亀戸神社 芭蕉庵

1994/02/03,1993/03/17 作成 2003/06/12

能舞台の名所・旧跡へ


 

 1番電車で出かけると、8時半には、東京駅に着いている。東京での会議は午後からのため、午前中、相当歩く事が出来る。

 湯島聖天(しょうでん)をお参り。元は湯島天神の末社だったが、明治になり、天台宗・心城院と改めた。ここは斎藤実盛別邸があった。武蔵國長井の庄(妻沼 (めぬま)市)が本領。そこにも聖天堂があり、聖天を深く信仰していたようだ。

 実盛は、源義朝に従えたが、その弟義賢(よしかた)が討たれた時、義賢の子、当時2歳の駒王丸と母を救い、木曽の中原兼遠に届けた。駒王丸は成長して義仲になる。義朝が殺された後、平宗盛に従い、加賀の篠原で木曽義仲と戦い戦死している。髪を染めたり 、名乗りもしないで、討たれている。73歳の覚悟の戦死だった。義仲の首実検で、実盛らしいがはっきりせず、よく知っている樋口次郎兼光を喚んで見せると「唯一目見て、涙をはらはらと流いて、あなむざんやな・・・」と言っている。

 境内には、江戸名水の一つ「柳の井」と呼ばれている井戸があり、この井は名水にして、女の髪を洗えばどのように結ばれた髪もはらはらほぐれ、垢落ちる、と言われていた。本物の湧水との事。
 湯島天神お参り。勿論、道真が神さん。菅原道真は代々学者の家柄であった。藤原氏の専横を憎んだ宇多天皇は、道真を重く用いたが、藤原時平(しへい)の讒言により、太宰府へ左遷される。時平が死んだ時、道真の祟りとの噂が広まった。謡曲「雷電」、乱曲「妻戸」等に怖ろしさが謡われている。 なお、謡曲「雷電」のシテはである。 天神社はその祟りを収めるために作られた。
 東大の裏門、池の端門の際に、「弁慶鏡ノ井」がある。立派な石碑があった。 なぜ此処にあるか不明。

 東大の表門の通りは、中山道だ。街道を往来した弁慶が姿見した井戸の意味か。

 3月17日、五条天神お参り。上野公園内にあり、日本武尊 が東夷征伐の時、大国主命、薬の神様の少彦名命(すくなひこのみこと)に助けられたので、尊が創始した。江戸時代に入ってから、菅原道真を合祀した。

 清水(きよみず)観音堂お参り。謡曲「盛久」で、平家の家人盛久が斬られようとした時、不思議が起こり、また、同じ時刻、頼朝も霊夢を見た事から助命される。これは京清水寺の観音の御利益。江戸の僧天海が、盛久が護持していた観音像を祀ったのが起源とのこと。不忍池の中の弁財堂も天海の創建。
 亀戸(かめいど)神社お参り。ここも天神さんだ。道真は人気があった。義経と同じような所がある。しかし、義経の神社、菩提寺等はない。

 江戸の始めに勧請された。紅梅殿あり。飛び梅の実生を勧請した。戦後、再興した建物。

 深川芭蕉庵を尋ねる。芭蕉の本拠地であったが、亡くなってからは、滅失してしまったが、大正時代、地元の人達が再興したとの事。芭蕉記念館もあったが、中に入らなかった。

 謡蹟は、芭蕉の旧跡とよく重なる。我らは日本人だなと思う。

1998.9.4 楠公銅像を尋ねた。楠正成である。謡曲「楠露(くすのつゆ)」のツレである。像は高村光雲の作、馬は後藤貞行作である。上野の西郷隆盛像も光雲作との事。皇居二重橋を見た。
 

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