5 深泥池 妙満寺 円通寺 上賀茂神社 衣通姫神社 康頼供養塔 大徳寺 雲林院 紫式部墓 北野天満宮 右近の馬場 晴明神社 蛤御門 澗底の松 下賀茂神社 糺の森 東北院 軒端の梅 白河院址 祇園女御塚

1993/02/26 作成 2003/05/30

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 賀茂神社の北に、深泥池(みぞろいけ)がある。謡曲では御菩薩池(みぞろいけ)と言う。謡曲「鉄輪」で、泥眼の面を着けた女が 夜、貴船に通う。「通い馴れたる道の末。夜も糺の変わらぬは思いに沈む御菩薩池・・・」とある。昔からの鞍馬街道である。行基がここで修行した時、池に弥勒菩薩が現れたので、御菩薩池と言われるようになった。

 この池は、水生植物の宝庫で、浮島もあり、國の天然記念物に指定されている。よくこのような池が今まで残って来たと思う。 よく面倒を見てくれる人達が居るんだろうと思う。

 妙満寺お参り。妙満寺は、昔 は寺町二条にあったが、昭和40年代ここに移ったとの事。又、松永貞徳の比叡山を借景した「雪の庭」があった。少し雪が残り、見事な庭。
 インドブッダガヤ大塔は、釈迦牟尼仏が覚りを開いた場所に、建てた供養塔で、仏教最高の聖跡である。「釈迦牟尼仏の精神に帰れ」という妙満寺の教えにより、昭和48年、日本で初めてこの大塔を型どり建立した仏舎利塔である。 又、この中に、幾多のエピソードを秘めてと説明があり、「道成寺の安珍清姫の鐘」が納めてあった。
 円通寺お参り。門が閉じてあり、中には入れなかった。よい庭があるとの事。
 上賀茂神社(賀茂別雷(わけいかづち)神社)お参り。渡来人賀茂氏の社。謡曲「賀茂」に、「秦の氏女といいし人。朝な夕なこの川辺に出でて水を汲み神に手向けけるに。ある時河上より白羽の矢一つ流れ来たり 。この水桶に止まりしを取りて帰り庵の軒に挿す。主思わず懐胎し・・・」とあり、生まれた子がこの神になる謂われが謡われている。
 境内に、衣通姫(そとおりひめ)神社がありお参りする。上賀茂の末社。衣通姫は古代のとびっきりの美人 、和歌の上手だったらしい。日本書紀にも現れ、紀貫之もよき女とし、謡曲「草子洗小町」にも語られている。紀州和歌浦に玉津島神社があり、そちらが本社。
 大徳寺の南側、山門の手前に鬼界が島の平康頼の供養塔がある。なぜ、ここにあるか判らない。説明もなくひっそりと立っている。
 北区紫野の雲林院をお参り。謡曲「雲林院」 、「摂津の男が、ある夜、雲林院で在原業平と二条后が伊勢物語を持って佇んで居る夢を見た。雲林院に来て、木陰に寝ていると、業平が現れ伊勢物語の恋愛を語り、その思い出に、折からの桜月夜に興じて舞を舞う。その内に夜が明け夢が覚める 」と言う風雅な話である。堂前の香煙台の台座に「雲林院」と刻んであった。源氏物語にも、出てくるし、歌枕にもなっているらしいが、余り知られていない。
 紫式部墓、小野篁墓をお参り。雲林院の東、200mほどにノーベル賞の田中さんで名の売れた島津製作所がある。その一角にあった。この辺りは、平安の昔から蓮台野(れんだいの)と呼ばれる墓地だったので、貴族の墓があってもおかしくはない。2人の墓がこの 辺りにあったということは、文献上でも古い伝承として残っているとの事。
 同じく紫野の上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)をお参り。ここに源頼光の墓があるとの事で尋ねたが、見つからなかった。頼光は「土蜘蛛」「羅生門」「大江山」でその四天王と共に有名な人。多田源氏多田満仲の長男である。
 北野天満宮お参り。菅原道真が左遷され死んだ。祟りを恐れて作ったお宮だ。出雲大社の設立の趣旨 と同じようだ。鳥居の右に広場があるが、これが「右近の馬場」である。謡曲「右近」では、鹿島の神職が右近の桜を見に来た所である。
 晴明神社お参り。陰陽師安部晴明の屋敷跡と言われ場所にある、晴明の社。謡曲「鉄輪」で、女に走った夫を殺そうと貴船の神に祈り恨みの鬼になった妻の怨霊を調伏したのが晴明。人気があるようで、地方にいくつも晴明神社がある。
 京都御所蛤御門を訪ねた。幕末、長州と会津・薩摩の戦争があった所。宝永の大火事の時、それまで閉ざされていた門が初めて開いたため、「焼けて口開く蛤」に例えてそれ以来蛤御門と言うようになったと看板あり。
 御所東の廬山寺(ろざんじ)お参り。「澗底の松」を拝見した。 謡曲「東北」「西行桜」に出てくる。

 写真禁止のため写真無しであるが、枯れかかった松だったように記憶する。

 下賀茂神社(賀茂御祖(かもみおや)神社)お参り。上賀茂神社の母親、玉依姫を祀る、渡来人賀茂氏の社。糺の森は昔の広大な原野の森の残りである。参道の東に泉川、西に涸川があり、御手洗川(みたらしがわ)である。謡曲「賀茂」 、神社設立の由来、「班女」、班女、花子が、糺の森で再会する。「水無月祓」、神社が舞台。「生田敦盛」、ここから始まる。「白楽天」、「正尊」、「代主」、「賀茂物狂」、「室君」、「夕顔」、「定家」、「鉄輪」にも出てくる所だ。
 黒谷さんの北、新如堂の北に東北院あり。お参りする。謡曲「東北」の軒端の梅のお寺。関白藤原道長の 屋敷の東北の位置に、建てられた一条天皇中宮の上東門院、道長の娘、彰子の住まいであり、その中の小堂に和泉式部も住んでいた。そこに軒端の梅があった。お寺さんは、江戸時代に再興された とあった。
 鹿が谷の入り口を確認。「此奥 俊寛山荘地」の石碑があった。
 白河院をお参り。門前に「此附近 白河院址」の石碑あり。謡曲「恋重荷」の舞台である。ここで女御を見初めてしまった庭守が、その荷を担いで、千回回れば、姿を拝ませようと言われ 担ぐが、その重荷を持ちかねて死んでしまい、女御を恨むがやがて、心解けて千代の栄を守り奉るすじである。白河天皇は、この辺りに法勝寺を建てた。大きな寺だったようだ。 その他を含め六勝寺と言った。その後、地震で壊れ廃れたとの事。俊寛僧都は、其の法勝寺の座主であった。法勝寺と言う寺は今は、無いが町の名で残っている。
 八坂神社近くの祇園女御塚をお参り。白河法皇が、清盛の父、忠盛に与えた女。女御はこの時妊娠しており、生まれたのが清盛とも言われている。この祠もほとんどの人が知らないで居る。忠盛灯籠の時、見忘れて写真がなかったので、撮りに戻った。

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