7 土蜘蛛墓 式子内親王御墓 牛若丸誕生井 

1993/05/04 作成 2003/06/01

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 北野天満宮の土蜘蛛の墓をお参り。この墓は、明治維新で廃寺になった朝日寺にあったので、今の位置に移した。新しい墓石だった。
 式子(しょくし)内親王御墓を尋ねて、般舟院陵(はんじゅいん)へ出かけたが、戸が閉まり入る事が出来なかった。今、インターネットで調べてみたら、平日は開かれているそうだ。1度行ってみよう。
2003.8.13 式子内親王御墓を尋ねて、般舟院陵を尋ねた。
 戸は開いていたが、守衛さんは見えず、庭師が剪定をしていた。式子内親王の墓は、五輪塔形式のささやかなお墓で、陵外にあると思っていたが、見つける事は出来なかった。庭師に聞いてみれば良かったと後で反省した。なお、宮内庁の陵墓の説明看板には、式子内親王の名前はなかった。

 ここは、定家時雨亭の跡と言われ、式子内親王の五輪塔があって、後に般舟院陵となったようだ。謡曲「定家」では、式子内親王と定家の恋の物語だが、「・・・石塔を見れば、星霜古りたるに蔦葛這ひまとい形も見えず候」、「これは式子内親王の御墓にて候。又この葛をば定家葛と申し候」、と言う問答がある。

 式子内親王は後白河天皇の子で、二条、高倉天皇、以仁王と兄弟であるが、子供の頃、賀茂の斎院となり、病気になって、退下。武家の台頭の頃で、平家台頭、以仁王の乱、平家滅亡を見てきた人。華やかな宮廷生活はなかったようだ。墓というこの石塔も陵の内にない。

 「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの よわりもする」  式子内親王

 北区紫竹牛若町の牛若町の牛若丸誕生井を尋ねた。畑の中にあった。楽に見つかった。源義朝の別館があり、常磐御前が住んでいた。3人の子を産んでいて、義朝が殺された後は、清盛の女になっている。いい女だったようだ。関ヶ原の不破の関辺りで山賊に襲われ死んでいる。
 

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