20 鳥取 島根 兵庫 範頼墓 宇部神社 安徳天皇陵参考地 美保神社 神門寺 出雲大社  日御碕神社 一畑薬師 室津 赤穂城 高砂神社 須磨寺

2000/12/28 〜 2000/12/31

能舞台の名所・旧跡へ    


 

1 鳥取      範頼墓 宇部神社 安徳天皇陵参考地           2000/12/28

 

 年末は暖かいとの予報を聞いて、少し遠いが車で出かける計画を立てた。12月末に近づくと寒波で雪。出発当日、チェーンだけは持って、雪を覚悟して出発。佐用ICを出て、373号線、53号線を行く。雪でなく雨である。道路も凍っておらず、やれやれである。

 昼には、鳥取市の隣、河原町に着く。食事処が全然なし。

 とりあえず最勝寺を訪ねる。町の小さなお寺さんだった。本堂お参り。丁度、住職さんが出て見えたので、範頼のお墓の所在地を訪ねると、裏山の上り道の途中にある。車で行けるから、楽に行けるとのこと。

tottori00122801.JPG (18024 バイト) 裏山は霊石山と名前が付いていた。案内の看板があった。和尚さんの口振りだと、すぐ判ると思って細かく見ずに登りだした。相当に登って、雪が積もった道になっても、見あたらず。雪が怖いので、やむを得ず引き返す。左右をよく見ながら下る。しかし、見つからず、看板まで戻る。

 改めて、見ると、ちゃんと表示あり。見落としだった。再度、挑戦。ゆっくり登る。先に登った半分ぐらい所の左側にあった。

 義経の兄の範頼は修善寺で殺されている。説明の看板によると、実は逃れ出て、ここ因幡の国に住み着き、出家して教頼法師と名乗り、45才まで生き、最勝寺に葬られたそうです。

tottori00122804.JPG (18519 バイト) 国府町の安部神社をお参り。地元のTV局が雨の安部神社を撮影していた。門松などを撮っていた。雨が少し強く降り出し雷が鳴る。山陰の冬季雷に初めて遭う。10cm位雪が積もっていた。この裏山が因幡山である。

 「松風」に「立ち別れ稲葉の山の峰に生ふる松とし聞かば今帰り来ん。それは稲葉の遠山松」とあり、因幡国府に赴任した行平が詠んだ歌の山だそうです。山頂には、数本の松と行平供養塔があるとのことです。

tottori00122805.JPG (8568 バイト) 同じ国府町の「岡益(おかます)の石堂」に寄る。町の説明看板によると、これはエンタシス式の石柱で中国六朝時代の要素を含んだ珍しい物だそうです。7世紀頃の物とのこと。

 きれいに整備された公園の丘の頂にあったが、雪が深いのと、石塔が小屋の中にあったので、よく見ることが出来なかった。山陰、北陸は大陸の影響の大きい土地のようです。

 また、明治29年に安徳天皇御陵参考地に指定され、宮内庁の管理であるとの、看板があった。平家の落人伝説と同じように、各地にあるようだ。高知、徳島にも御陵があるとのこと。

tottori00122806.JPG (8682 バイト) 展望台に登り、鳥取砂丘の全貌を観察。相変わらずの雨で、見るだけにする。遅い昼飯をとる。

 能登守教経(義経の家来の佐藤継信を射落とした)の矢研ぎ石、湖山町生まれの和泉式部の、産湯の井戸、胞衣塚があるようですが、パスする。

 高速道路に馴れてしまって、一般道路の時間予測が大狂い。時間が無くなり泡を食い、宿泊地三朝温泉に向かう。

2 鳥取 島根          美保神社                  2000/12/29

 

 大山に向かう。晴天の青い空を見上げながら、海岸道路の9号線を西に。山陰の富士山、大山がだんだん大きくなる。山頂は真っ白、どこまで行けるかな。

tottori00122807.JPG (14477 バイト) 今朝、旅館で聞いたらば、大山は、神社まで行ける。チエンは持っているが、普通タイヤで行けるか。行ける。で、登ることにした。国道を外れると、ほとんど、車は通らない。快調に登山道路を走る。

 心配した通り、あと数百メートルでお寺さんだが、雪で行けず。きっぱりとあきらめ、引き返す。日本海が丸見え、すばらしい見晴らしだった。

 国道を走るだけのためか、大分、被害があったと聞いていたが、地震の痕跡は目に留まらない。

tottori00122808.JPG (14923 バイト) 伯耆の境港の町を抜け、出雲へ入ると道は空き空き、細い道は正月には大渋滞だろうと思い美保へ向かう。隠岐への道の関所美保関。「大社」の「湊の大明神」の美保神社をお参りする。「えびすさん」が神様。小さな漁港の際のお宮さん。古い時代から続いた、古い形式の「美保造り」の神社。

 米子へ戻らず、島根半島回りで、、松江に向かう。松江城の駐車場に入る。ここで昼食。松江城拝見。山陰では、天守閣があるのはここだけだそうです。宍道湖が輝いている。

tottori00122809.JPG (11721 バイト) すさのおの尊の八重垣神社、八雲立つ風土記の丘、八雲村の熊野大社、大東町の須賀神社はパス。計画がずさんだったと反省。

 宍道湖の夕日が綺麗とのことで、駐車場を探すと美術館際の夕日公園の駐車場ががら空き、車を入れる。岸から少し離れて浮かんでいる薄べったい島、嫁ヶ島の向こうに沈む位置を選んで、しばらく待機。この美術館は、今日は年末の休館日。いつもは日没後30分まで、展望させてくれるようです。

tottori00122810.JPG (10703 バイト) カメラのレンズが広角だったが、何枚か撮った。絵はがきのようにはいかなかった。適当に雲があり、日が射したり、曇ったりで、よい被写体だった。カメラを持った人達が沢山集まった。

 今日は、予定を半分にして、夕日を見たが、悔いはなかった。良い夕日だった。

 玉造温泉に向かう。

3 島根      神門寺 出雲大社 日御碕神社 一畑薬師 室津     2000/12/30

 

tottori00122901.JPG (20222 バイト) 弘法大師が「色は匂へど散りぬるを」の歌をつくったと言うお寺、出雲市の神門寺(かんどうじ)、いろは寺をお参り。土地の人2,3人に聞いて、ようやく到着。あまり知られていないお寺さんのようです。

 お寺には何の説明看板もなく、ごく普通のお寺さんだった。もちろん、観光案内の本には載っていなかった。

tottori00122902.JPG (14155 バイト) 出雲大社に向かう。「大社」の舞台である。「阿受枳(あじか)の大明神」の阿須伎(あすき)神社はパス。地元では10月を神有月と言うそうです。「大社」の謡にも、「今月は神有月とて諸神影向なり」とある。その神様の集まる社です。

 だいこくさんの大国主命が神様です。円満に国を譲った神様です。多分、大陸からの人々の王だったんだろうと思う。鉄を造り、大陸と交易をして、裕福だったに違いない。多分、脅かされて悩んで、息子たちに反対されて、でも譲ることにしたと思う。遠い昔、この地でそのようなことがあったんだなとつくづく思う。

 大和地方にいた豪族は、鉄製武器を持った、数百人の兵隊に戦わずして降伏したと何かで読んだことがある。

 八岐の大蛇が、毎年時を定めてくるのは、毎年、洪水を起こし、その度に位置を変えた、この斐伊川だった。小さい川を集めて宍道湖に流れ込む、8本のしっぽを持つ川。呑まれる奇稲田姫(くしだなひめ)は稲の化身、蛇は刀剣。天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、雨、豪雨、の意味を含んでいると言う。今の斐伊川は暴れ川の姿はない。

tottori00122903.JPG (22434 バイト) 海岸際の細い曲がりくねった道を、きれいな日本海を眺めながら、日御碕神社に向かう。天照大神の社。「大社」では、「出雲の御崎に跡を垂れ・・・容顔美麗の女体の神」として表される。朱色の門の奧に上下の社がある。上は、すさのうの命。下は天照大神を祭っている。

 出雲大社前に戻り、出雲そばの昼食を取る。今回初めての定時の昼食。

tottori00122904.JPG (16196 バイト) 一畑薬師に向かう。山の上のお寺さん。駐車場は我らを含め2台だけ。10分ほど歩き本堂をお参り。

 宍道湖の北を、宍道湖を見ながら松江に向かう。今日はこれから兵庫の赤穂まで走る。松江を抜け、9号線で、米子へ。のろのろスピードで、いらいらしながら走る。ここを曲がると八重垣神社、あそこを曲がると足立美術館、左へ曲がると和鋼博物館と、確かめる余裕のある走りだった。

 高速道路には入れば、車は少なく、山陽道への山越えは雪もなく、快適な走り。米子道、中国道、岡山道、山陽道をとおり、赤穂ICで降りる。すでに暗くなり、赤穂の町を抜け赤穂御崎の宿へ。

4 兵庫      赤穂城 室津 高砂神社 須磨寺      2000/12/31

 

tottori00122905.JPG (15582 バイト) 忠臣蔵の赤穂城へ。大石神社があり、天守閣はなし。掘、石垣が残っていた。大石神社をお参り。

tottori00122906.JPG (15562 バイト) 相生市を通り、御津町へ。室津の明神を訪ねる。ここは昔からの良港だった。小型車1台の細い道を御崎の先へ。

 そこに拝殿と本殿が向き合った古い形式の賀茂神社がある。「賀茂」のワキはこの室の明神の神主さんです。正月を迎える準備で、地元の人達が幕を張ったり、掃除をしたり忙しくしていた。お参りを済まし、高砂に向かう。

tottori00122907.JPG (16110 バイト) 高砂神社をお参りする。昔は海岸近くの松林にあったと思われるが、今は、高砂市の町の中にある。相生の松は大きく枝を張り、でんと構えていた。正月の準備が終わり、しんとしていた。

tottori00122908.JPG (18935 バイト) 2号線に入り、神戸へ。須磨寺へ寄る。敦盛首塚、首洗い池をみる。

 熊谷次郎直実がじぶんの子と同じくらいの敦盛を助けようと思い、後ろをきっと見れば味方が来る。「助け参らせんとは存じ候へども、味方の軍兵雲霞のごとく候。よものがれさせ給はじ。人手にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後の御孝養をこそ仕り候はめと申して、泣く泣く頸をぞかいてんげる。後に聞けば、・・・生年17にぞなられける。それよりしてこそ熊谷が発心の思はすすみけれ」と平家物語にある。能では狂言の語りにある。

 その後、蓮生法師となって、全国行脚したようです。京都二条城の南に、熊谷蓮生坊守護本尊の石碑のあるお寺さんがあった。

 

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