15 静岡 北条時頼墓 弥勒堂 修善寺 指月殿 源頼家墓 源範頼墓 源頼政墓 大見小藤太墓 狩野介城趾 河津神社 河津三郎血塚

1994/01/15〜 1994/01/16作成 2003/06/11

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 伊豆長岡町の最明寺お参り。鎌倉5代執権、北条時頼の墓がある。鎌倉最明寺で死んだ後、北条氏発祥のこの地の人々が、分骨を鎌倉に願って寺を建てたとの事。血で血を洗う政争に明け暮れ、謡曲「鉢木」で、佐野のわたりで大雪に遭い、一所に佇みて袖なる雪をうち払いうち払う 場面がある、時頼の明るい日差しの故郷の地。
 弥勒堂お参り。鵺退治や宇治平等院の戦いで名を馳せた源頼政の妻、あやめ御前の館跡だ。平家の目を逃れて夫の冥福を祈った。98歳まで生きた。お手植えの美女桜があり、薄墨色に見える白の花を咲かせるそうだ。
 修善寺お参り。範頼が ここに幽閉され、翌年、梶原景時に襲われ自殺。次の世代の頼家も北条時政に幽閉され、殺される、鎌倉の血まみれの歴史を包み込んだお寺。岡本綺堂の「修善寺物語」がある。
 指月殿(しげつでん)、源頼家墓お参り。頼家の母、北条政子が菩提所として建立した。指月とは、経典の事で、数千巻を納めた経堂だった。今は1巻のみ 残る。境内に頼家の墓がある。大きな供養碑の後ろの五輪塔が墓である。
 範頼の墓お参り。修善寺の町外れにある。頼朝の弟である。義経と共に平家追討に功があったが、頼朝に嫌われ殺された。曾我兄弟仇討ちの時、頼朝も殺されたと聞いた時、政子を慰めるため「範頼がおりますからご安心ください」と言った事が、災いしたと言われている。曾我兄弟の仇討ちは、クーデータだったと言う説もある。
 16日、沼津と言っても修善寺の西に当たる沼津市河内(こうじ)にある禅長寺お参り。ここ が頼政の菩提寺で墓がある。あやめ御前の塚もあるようだが、見つけ損なう。
 中伊豆町柳瀬(やなせ)の大見小藤太墓をお参り。曽我兄弟の父親、川津三郎祐泰(すけやす)を討った大見小藤太だ。直ぐ、追っ手をかけられ、大見小藤太は捕らえられ殺され、故郷の馬場沢(ばんばさわ)に葬られた。馬場沢の地名は見つけられなかったが、近くの大見川に馬場沢橋があった。頼朝挙兵の4年前だった。
 天城湯ヶ島町本柿木(ほんかきぎ)の狩野介(かのすけ)城趾を尋ねた。謡曲「千手」のワキ狩野介宗茂は、生け捕った平重衡を預かり、手越の千手を呼び重衡を慰める。 その宗茂の父、茂光の居城跡だ。茂光は配流の頼朝に仕え、石橋山で戦死する。画壇の狩野派も一族との事。今は、何にもない。
 河津町の河津神社お参り。曾我兄弟の故郷。父、河津三郎祐泰(すけやす)の館跡で兄弟の誕生の地だ。父が暗殺されてから、母は再婚し、曽我の姓となった。 少し新しい感じの祐泰夫妻の墓があった。
伊東市赤沢に血塚があり、お参り。此の近くの椎の木3本の木陰から、大見小藤太等に矢を射かけられ、河津三郎は死ぬ。その遺児一万は5歳、箱王は3歳。母は2児を連れ相模の曽我祐信に嫁した。
 

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