7 静岡 曽我寺 曽我兄弟墓 虎御前腰掛け石 玉渡神社 曽我神社 五郎首洗い井戸

1992/05/16 作成 2003/05/09

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 富士市の曾我兄弟の旧跡を尋ねた。

 冨士厚原の曽我寺の門前に曾我兄弟橋があり、参道に、新しい玉垣に囲まれた曾我兄弟の五輪塔があった。

 又、2,3日前に新聞に出ていた、岡崎市から寄贈された石仏が、報道通りお寺の前に並んでいた。2003年の今、どうしているかな?

 曽我寺お参り。お寺には、墓、位牌、木像があるとの事。

 曾我兄弟は頼朝の冨士巻狩りの際、親の仇討ちをした。非業の最期を遂げたこの事件は、武家社会に大きな衝撃を与え、人々の口伝えにより広く世間に知れ渡った。特に女性の語り部による「曽我語り」に負うところは大きく、鎌倉末期の「吾妻鏡」、 謡曲「小袖曽我」、歌舞伎「曽我物」、真名本「曽我物語」など、後世に舞台や文学として受け継がれる基礎となった。武士道の鏡として喧伝され、遺跡も多い。

 兄、十郎祐成(すけなり)5歳、弟、五郎時致(ときむね)3歳の時、実父河津三郎祐泰(すけやす)が工藤祐経(すけつね)に殺された。曽我は、母の再婚先の姓。18年後、頼朝の巻狩りの時、白糸の滝近くで親の敵を討ちとった。兄十郎は、その場で殺され、弟五郎は、鎌倉に護送の途中、首を刎ねられている。

 厚原の虎御前腰掛け石、兄十郎の女、虎御前は、兄弟の安否を気遣って大磯を発ちここまで来たが、すでに、兄弟はこの世にいないと聞いて、流れる涙も拭かず崩れるように、この石に腰掛けたそうだ。その後、虎御前が墓参りの度に、この石に腰掛け、疲れを取り、出直しの道を開いた。また、村人はこの石を洗うと、疲れがとれ腰の病も治る事から、お参りするようになった。今、地元の大木氏が主にお守りしている。

 同所に、玉渡神社あり、お参り。虎御前を祭ると言う。

 同じく、曽我神社あり、お参り。

 同じく、五郎の首洗い井戸あり。五郎を捕まえたのは、頼朝の父、義朝の家来だった御所五郎丸だ。頼朝は、五郎を助けようと思ったが、敵討ちの輪が続かないように、五郎を殺すことにし、五郎の母には、曽我の地を安堵する自筆の状を与えた。五郎はここで首を刎ねられた。

 

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