8 平重衡墓(安福寺) 和泉式部墓 以仁王陵 井出の玉川 玉水 女郎花塚 小野頼風墓 石清水八幡宮 放生川 長岡天満宮 羽束師の森 平重衡墓(一言寺)

1993/07/08 作成 2003/06/03

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 木津町の平重衡の墓をお参り。安福寺にあり、十三重塔が建っていた。平家物語の「重衡被斬」である。妻との別れがあり、また、南都僧は重衡処分をいろいろ考えるが、結局、武士に渡し、木津で斬らせる事にした、とある。

 謡曲「千手」でも詳しいが、重衡は、頼政を宇治で破り、東大寺、興福寺を焼いて、一ノ谷で負け、須磨で捕まる。鎌倉に送られ、千手に世話になるが、南都僧の要求で奈良に送られる途中、木津で殺された。

 木津町木津殿城に和泉式部墓があり、お参り。ここで死んだらしい。
 山城町の 高倉神社と以仁王陵お参り。後白河天皇の子で、三条高倉に住み、高倉王と言われ、頼政と平家追討を図るが、宇治から南都に落ちる途中、平氏に打たれる。以仁王令旨で立った頼朝が鎌倉幕府を開く等、大きな影響を与えた。
 JR奈良線玉水駅。謡曲「百万」に「山城に井出の里、玉水は名のみして・・・」とある。井手の里を愛した左大臣橘諸兄は別邸を造り、日本六玉川の一つ、玉川の堤に美しい山吹を植えた。
 八幡市の女郎花塚をお参り。謡曲「女郎花」は、男山(おとこやま)の麓に住む小野頼風と深い仲となった都の女が、男の足が遠のいたのを恨み悲しみ、男山を流れる放生川に身を投げる。女の脱ぎ捨てた衣が朽ちて女郎花が咲き出した。この花恨みたる気色に頼風も後を追って入水した。女の方を女塚又は女郎花塚、男の方を男塚、又は頼風塚と言う。女塚は、松花堂公園の中にあり、男塚は、町の人家の間に、こぢんまりとあった。
 男山に鎮座するのが、男山八幡宮、石清水(いわしみず)八幡宮だ。9世紀、行教和尚が宇佐八幡に参籠,神告を受け、男山に創建した。

 謡曲「弓八幡」は、男山八幡の神徳を讃え、威武の聖代を祝う内容。「弓八幡」の名は弓、矢、幡の3つの武具を表したものだ。弓矢で戦勝を祝うのでなく、弓を袋に入れて武をおさめる内容。「謡曲大観」は、時の将軍に対する世阿弥の心意気、見識、熱情と言い切り、偉大な芸術家は時流を遠く離れ、遙かに高い所に立っているものである事を、静かに考えたいと思う、と言っている。将軍は義教とみて良い。

 放生川は男山の下を流れる川、女郎花の男女が入水した川。また、謡曲「放生川(ほうじょうがわ)」がある。石清水放生会を扱い、石清水八幡宮を讃える曲である。
 長岡天満宮をお参り。長岡遷都があったが、建設の途中で、平安遷都に変更になった土地である。ここは、菅原道真が、在原業平等とよく遊んだ場所であり、太宰府左遷のときも、ここに立ち寄り、「わが魂長くこの地にとどまれ」と名残を惜しんだ事から、道真の木像を祀ったのが創立だそうだ。大きな池があり、桜、楓、梅、ツツジが美しい。
 羽束師の森の羽束師神社お参り。正式の名は「羽束師坐高御産日神社」。ここも土器を作る羽束氏(はつかし)、土師氏(はじし)ら渡来人のもの。羽束師の森は謡曲「芦刈」、「雲雀山」、「関寺小町」、「三輪」に出てくる。昔から知られた土地だった。
 伏見の一言寺をお参り。伏見の南に日野と言う土地がある。平重衡の奥方の里、日野氏の里。奥方は、重衡の遺体を焼き高野山に納め、この地に墓を作った。今、一言寺近くの公園にある。
 

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