9 宮城 末の松山 沖の石 多賀城趾 塩竃神社 御釜神社 青葉城 秋保の滝 西行戻り松 五大堂 雄島 瑞巌寺 尿前の関

1996/08/01〜1996/08/03 作成 2003/07/23

西行・一休など    能舞台の名所・旧跡へ


 

 末の松山を尋ねた。多賀城市の宝国寺の裏に聳える2本の松の所が末の松山だった。こんもりとした小さな丘の上にあった。此の近くまで海が迫り、船の灯台の役目があったのだろう。謡曲「善知鳥」、「砧」、「班女」、「雪」に末の松山が出てくる。昔からの歌枕だった。

  「契りきな互(かたみ)に袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」  清原元輔

 沖の石は末の松山から少し下った町の住宅地の中にあった。「袖に波越す沖の石」の感じは何も無しだった。
 多賀城趾を尋ねる。坂上田村麻呂が根拠地にした地である。今は何もない丘だ。壺碑(つぼのいしぶみ)が鞘堂の中にあった。江戸時代初めに発見され、歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていました。芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」にある。
 塩釜市の塩竃神社お参り。陸奥の一宮である。
 左宮・右宮、別宮があり、違う神様が祀られている。写真は左宮・右宮。

 また、文治灯籠があった。謡曲「錦戸」は、秀衡の子、錦戸太郎(國衡 長男庶子)が当主泰衡(秀衡の次男)と図り、泉の三郎(忠衡 秀衡の三男)を誘い、義経を討とうとするが、泉は父秀衡の遺言を守り応じなかった。その為兄2人に討たれてしまう話。その泉の三郎が寄進した物。

 塩釜市の御釜(おかま)神社お参り。塩竃神社の末社。昔塩を焼いた鉄釜が4つあり、祠に収まっていた。頼めば、扉を開けてくれるようだ。
 仙台城(青葉城)趾を尋ねる。今は、石積等が残っているだけと言う。
 8月2日、仙台の西方の秋保(あきう)の滝を見に出かけた。落差55mとの事。水量も多かった。

 秋保大滝不動お参りする。

 松島に行く。西行戻りの松公園で戻り松を見た。 この松の所で、西行は、歌創りや「あこぎなるぞ」と言われた事について、小僧や爺さんに教えられ、すごすごと引き返したそうな。
 五大堂お参り。日本三景松島のシンボル的存在。坂上田村麻呂が東征の折に建立した単層宝形造りの建築物だが、その後、瑞巌寺開基に際し、五大明王像を安置したことから五大堂と言う。
 見た目のように撮れなかったが、静かな海と小さな島が点在し、見晴らし素敵。頼賢の碑あり。
 瑞巌寺お参り。瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と言う。臨済宗のお寺。鳴子温泉に泊まる。
 8月3日、鳴子温泉の入り口の尿前(しとまえ)の関へ。瑞巌寺と尿前の関は写真が少なかった。なぜか理由は覚えがない。
 

以    上  TOPへ戻る  


 

10 秋田 磯崎神社 桐善寺 小町自像 小野小町堂 二つ森 

1996/08/03 作成 2003/07/23

能舞台の名所・旧跡へ


 

 秋田県雄勝(おがち)町の小野小町の生まれ故郷を訪ねた。

 郡司として派遣された小野良実(おののよしざね)が村長の娘と結婚し、やがて比古姫(ひこひめ 小野小町)が誕生した。良実が都に帰るとき伴われて都へ出た小町は宮中に仕えることになり、和歌や琴に優れ、天性の美貌だったので、時の帝の寵愛を受け大勢の男性から求婚されるようになった。しかしこれを妬むものも居て都の暮しが嫌になり36歳で生まれ故郷に帰った。

 磯前(いそざき)神社お参り。神社の傍に薬師如来のお堂があって、清水が湧いていた。小町は、疱瘡を患い、この清水で顔を洗い、早く治るように日参したそうだ。この泉を小町泉と言う。
 桐善(どうぜん)寺お参り。小町を慕って東下りした深草の少将が住んだ所で、長鮮寺と言った。ここから百夜通いをし、九十九日目に死んだそうだ。今は、桐善寺と言い、少将の供養塔があるとの事。
 向野(こうや)寺お参り。小町の菩提寺と言われている。小町の自作の木像自像が安置してあった。お寺さんに声を掛けたら、上がって拝めと言われたので、お参りして、木像の前にお布施を置いてきた。
 小野小町堂お参り。建て替えられ真っ赤な神社に成っていた。深草の少将が、ここに芍薬を植えた芍薬塚があったそうだ。
 小町は、少将を二つ森に埋葬した。自身も92歳まで生き、二つ森に眠っている。
 

以    上  TOPへ戻る