11 仁和寺 双ヶ丘 法金剛院 千代の古道 車僧御影堂 渡月橋 法輪寺 小督塚 天竜寺 野宮神社 落柿舎 二尊院

1993/09/24 作成 2003/06/06

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 仁和寺お参り。謡曲「経正」の舞台である。謡曲「経正」、平経正は小さい時から、仁和寺御所(守覚法親王)に可愛がられ、青山と言う琵琶を拝借していたが、 源平合戦の折に、これを返し 西海で死んだ。僧都行慶(ぎょうけん、ワキ)に言いつけ、此の琵琶を手向け弔わせた。すると、経正の幽霊が出てきて琵琶を弾き、修羅の苦患を示し、消え失せるのだった。

 ここの御室桜は根本から枝が張り花を咲かせる。お多福桜とも言う。

 双ヶ丘は謡曲「経正」で「月に双の岡の松の葉風は吹き落ちて・・・」と謡われている。兼好法師がこの岡の辺に隠棲して「徒然草」を書いた事から、双ヶ丘は人に知られるようになった。 「春日龍神」にも出てくる。
 花園の法金剛院をお参り。西行の生涯の思い人、鳥羽天皇皇后の待賢門院が再興した寺であり、謡曲「百万」の子方、成人して円覚上人は、この寺の中興の祖。
 謡曲「小督」に「所を知るも嵯峨の山御幸絶えにし跡ながら、千代の古道(ちよのふるみち)たどりこし・・・」、「車僧」に「所から此処は浮き世の嵯峨なれや。雪の古道跡深き・・・」とある、「千代の古道」は嵐山方面から、生田口、山越東町、山越の各バス停を通る、平安時代の都人たちが、広沢池での水遊びやお月見などに利用した道。

 在原業平が 「嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の 千代のふる道跡はありけり」と詠っている。

 太秦 (うずまさ)に車僧御影堂がある。謡曲「車僧」は、 都を破れ車に乗り往来する僧、車僧と愛宕山の太郎坊との行比べで、車僧の法力に負けて天狗の魔性を和らげて、あら恐ろしや尊やと合掌して消え失せるすじ。車僧が最後に住んだ場所だ。昔は海生寺と言う寺の跡だそうだ。

 支那の天狗の首領善界坊は、仏法の妨げをしようと思い、愛宕山の太郎坊を尋ね、比叡山に案内させるが、最後は負けて逃げ去る。謡曲「善界」だ。

 嵐山、渡月橋。謡曲「嵐山」がある。大堰川 (おおいがわ)の上は、保津川。下は桂川。花の名所。右岸が嵐山。左岸が嵯峨。
 大堰川を渡り、法輪寺お参り。謡曲「小督」に「月にやあくがれ出で給ふと法輪に参れば琴こそ聞こえ来にけれ・・・」とある。小督は嵯峨に隠れ住んだ。
 左岸ホテル嵐山の西に、小督塚がある。店の間の狭い所にある。花も新しく、面倒見てくれる人がいる。 小督は平清盛を恐れ、この辺りに隠れ住んだ。
 天竜寺お参り。室町幕府が、旧来の比叡山に対抗するため禅宗の官寺を造った。立派な竹林があったが、旨く写真にならない。
 嵯峨野の竹林の中の野宮神社お参り。黒木の鳥居は皮の着いたままのクヌギの木。回りの小柴垣は「くろもじ」を使う古来の物。謡曲「野宮」あり、六条御息所の葵の上との車争いで、ひどい目にあった。その妄執をを晴らしてくれと行って消えるすじ。
 落柿舎去来の別荘で、芭蕉は3回来ているそうだ、
 二尊院お参り。本堂右に釈迦如来、左に阿弥陀如来の二本尊がおり、二尊院の名もここから名付けられた。正しくは、小倉山二尊教院華台寺と言う。
 

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