8 大阪 田蓑神社 天王寺 松虫塚 住吉大社 すみのえ  浅沢神社 遠里小野橋 仁徳天皇陵 信太の里 蟻通明神 関西空港

1995/08/09〜1995/08/10 作成 2003/06/25

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 電車の乗り継ぎで大阪の謡蹟を尋ねた。
 謡曲「芦刈(あしかり)」に「雨に着る田蓑(たみの)の島もあるなれば・・・」、「蝉丸」、「住吉詣」にも出てくる、田蓑の島を尋ねた。正確には何処か判らないが、天王寺の近くの海辺にあったと言う。1つは、中ノ島の堂島川に架かる田蓑橋あたりと言う。
 佃町の田蓑神社を訪ねる。住吉神社と同じ神さんを祀る、佃漁民の神様。謡曲は、和歌に素材を求め、その和歌も、「雨に着る蓑」の言葉を「田蓑の島」としている。ただ、「田蓑の島」は知られた名 前だった。東京の佃の故郷とのこと。従って田蓑神社も東京にあるそうだ。

 天王寺の西に「田蓑」の地名があったようだが、地図で調べても見つからない。

 天王寺を訪ねる。四天王寺は聖徳太子が建立した、日本仏法最初の大寺である。仏教を支持する蘇我氏と反対する物部氏の戦いの中で 、弱冠16歳の聖徳太子は仏教の守護神、四天王に祈願して戦い、勝った。その報恩謝徳のため、建てられたのが四天王寺である。
 天王寺と聞けば、謡曲「弱法師(よろぼふし)」が直ぐ出てくる。「さすが名に負ふこの寺の仏法最初の天王寺の石の鳥居ここなれや」の文句がある。

 父に捨てられた子が、盲目になり、弱法師と呼ばれる乞食に落ちぶれ、芸を見せ天王寺で暮らしている。しかし、梅の香りに心を止め、悟りを開き得た所がすでにあった。父親は、人の讒言を信じて追放したが不憫に思い探しに出て、天王寺で再会し、故郷、高安の里に帰った。

 西大門は、昔から極楽の東門と言われ、また、門前が波打ち際だったことから、夕日が西の海に沈むのを見て浄土を偲ぶ信仰があった。この西門が「石の鳥居」であり、13世紀の建立。扁額の文字は「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」とある。お釈迦さんが説教する所であり、ここが極楽の東門の中心である、意味だそうだ。

 阿倍野の松虫通の松虫塚を尋ねた。謡曲「松虫」は、男色物である。酒飲みが、その友である若者が松虫の声に引かれて野辺に死んだと言って慕い、悲しんだ話。「松虫」を広辞苑では「鈴虫」。日葡辞書では「こおろぎ」となっている。私は師匠からコオロギと聞いている。

 この塚の説明に、古来数々の伝説があるとして、この謡曲の松虫。松虫、鈴虫の姉妹の女官の話。才色兼備の琴の名人と言われた女が、鈴虫の自然の音に及ばないと琴を捨てた話。阿倍野の男が松虫の音を、生涯友として辞世の歌を残し て死んだ。の4つが示してあった。

 古今集の序に「ふじのけぶりによそへて人をこひ、松虫のねにともをしのび・・・」とある。謡曲「松虫」は世阿弥の作だが、古今集から構想を得たらしい。

 住吉大社お参り。謡曲「高砂」、「岩船(いわぶね)」、「雨月(うげつ)」、「梅枝(うめがえ)」、「住吉詣」、「草子洗(そうし あらい)小町」、「大社(おおやしろ)」、「呉服(くれは)」、「淡路」、「白楽天」、「飛鳥川(あすかがわ)」、「玄象(げんじょう)」、「弱法師」、「源氏供養」に出てくる。大昔からの大社。海の神さんである。
 第一本宮 底筒男命(そこづつのおのみこと)、第二本宮 中筒男命(住吉大神、なかづつのおのみこと)第三本宮 表筒男命(うわづつのおのみこと)、第四本宮 息長足姫命 (神功皇后、おきながたらしひめのみこと)、合計4つの同じ型の社がある。田蓑神社も同じ神様だ。
 昔、住吉は「すみのえ」と言った。高灯篭があった。謡曲「高砂」で「はやすみのえに着きにけり」とある。そこの住吉公園を歩く。芭蕉の句碑があった。

   「升買って 分別かわる 月見かな」 芭蕉

 住吉神社の「宝の市」で、名物の「升」を買ったが、弟子が予定したその晩の月見に、体調を崩し欠席した。本当は、分別が出てきて月見に行かなかったのではない。具合が悪くて行けなかったのである、の意味。今回、始めて知った。分別は思案をめぐらすの意味か。

 住吉神社の近くの浅澤神社お参り。謡曲「富士太鼓」のシテ(楽人富士の妻)と子方(その子供)を祭った社と言われている。

 「富士太鼓」は、天皇に召された天王寺の太鼓打ち浅間と、腕に覚えのある住吉の太鼓打ち富士が押しかけ競ったが、「信濃なる浅間の嶽も燃ゆなれば富士の煙のかひやなからん」というように富士が上だが、太鼓は浅間が上手と判定があった。富士が生意気に振舞ったらしく、浅間は富士を殺してしまった。富士の妻と子はこれを知って、狂い、敵は太鼓と打って悲しむすじ。 敵討ちは太鼓に向かいした。

 謡曲「梅枝」はその後日談で、シテ(楽人富士の妻)は、毎日、夫の太鼓を打って心を慰めていたが、死んでしまい、その執心を弔えと僧に言って消えうせる。僧が読経していると妻の亡霊が夫の衣装をつけて出てきて、愛着の執心を述べ、懺悔の舞を舞 い消え失せるすじ。

 遠里小野(おりおの)は住吉の名所だった。大阪市住吉区と堺市の境界を流れる大和川に架かる遠里小野橋があった。両市に遠里小野町がある。

 謡曲「雨月」に「げに村雨の聞ゆるぞや。遠里(とおざと)小野の嵐やらん」とある。謡曲「岩船」にも「遠里小野の草葉まで、君の恵みによも漏れじ・・・」とある。

 堺市の仁徳天皇百舌鳥耳原陵(もずみみはらなかのみささぎ)お参り。謡曲「難波」は仁徳天皇を讃える曲である。「高き屋に上りて見れば煙立つ、民の竈(かまど)は賑ひにけりと、叡慮にかけまくも、かたじけなくぞ聞えける・・・」とある。
  8月10日、和泉市の「信太(しのだ)の森」の葛葉(くずのは)稲荷神社をお参り。陰陽師安部晴明(おんようじあべせいめい)の生まれ故郷とのこと。

 安部保名(やすな)は狩人に追われた白狐を助けたが、怪我をした。白狐は「葛の葉」と言う女に化けて介抱し、仲良くなり、子をもうけた。子が5歳になった時、正体がばれ、「恋しくば尋ねてみよ和泉なる信夫の森のうらみ葛の葉」歌を残し、信夫の森に帰ったそうだ。この子が成長して晴明になる。

 謡曲「鸚鵡小町」、「葵上」、「砧」に葛の葉が出てくる。葛の葉の裏表を詠った句碑、歌碑があった。

  「葛の葉の面みせけり今朝の霜」 芭蕉

  「秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがほには見へじとぞ思ふ」  和泉式部

 境内には、樹齢2000年以上の楠があり、根本で二つに割れているので、夫婦楠とも言い、枝ぶりが四方に繁茂しているので、千枝(智恵)の楠とも言う。又清少納言の草紙に「森は信太森」と記して以来、和歌の題となっている。

 泉佐野市の蟻通(ありどうし)神社お参り。境内に「紀貫之冠之淵の碑」がある。

 紀貫之は玉津島明神に参る途中、蟻通明神の境内を下馬せずに通行したため、馬が暴れだし落馬した。このとき頭上の冠をとばし、そばの池に落ちた。(この池を「冠之淵」と呼ぶ小さな池があった) このとき、非礼を感じて、知らぬとは言え、ご無礼をした、と詫び、歌を奉納し、危難を逃れたそうだ。

 「かき曇り あやめも知らぬ 大空に ありとほしをば 思ふべしやは」(曇った空に星があるとは思いませんでした。蟻通明神があるとは思いませんでした)。謡曲「蟻通」がある。この物語をとおして蟻通明神を讃え田内容だ。

 関西空港を見てきた。巨大な人工物。毎年、沈んでいる島の飛行場を見学。
 

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