21 石清水八幡 放生川 小野頼風墓 松花堂公園 女郎花塚 一休寺

11km     2001/10/07

能舞台の名所・旧跡へ


 

  京阪八幡市駅下車。駅前の観光案内所で地図を貰う。

 石清水八幡宮の鳥居の前に、「やわた走井餅」のお菓子屋さんがあった。逢坂山の走井と思われるが、店は開いていたが、人がいず、確認できなかった。 帰りによるつもりで、放生川(ほうじょうがわ)の安居橋(あんご ばし)を尋ねる。

 弧を描く木製の橋である。周りは整備され、公園となっていた。また、放生川は 謡曲「女郎花(をみなめし)」の都の女が、男の通いが絶えたのを恨み、身を投げた川である。今は、両岸が石積みなどして整備された、水量少ない小さい川であるが、この付近は、桂川、宇治川、木津川の合流点であり、この放生川も水量のある川だったのだろう。

 謡曲「放生川」は東国の僧が、石清水八幡参詣の時、魚を持つ持った老人に会い、「なぜ殺生をするのか」と尋ねると、「今日は生けるを放つ放生会で・・・・・」と答え、石清水八幡の神得を称えるお話である。

 放生池があり、放生会の時は、池の中に舞台を組み舞楽を奉納するとあった。

 裏参道から男山に登る。ケーブルカーがあるだけあって、急な坂である。 以前、1度参詣したことがあるが、どの参道を登ったか、覚えがない。

 本殿をお参り。昔から、都を攻めるのも、守るのも、この山を確保したほうが有利だったようだ。向かいの天王山との間は狭く、鉄道、道、川までが集まり、丸見えである。東方は、広大な湿地帯。その向こうに宇治。重要な拠点だった。

 裏参道から男山に登る。ケーブルカーがあるだけあって、急な坂である。 以前、1度参詣したことがあるが、どの参道を登ったか、覚えがない。

 本殿をお参り。昔から、都を攻めるのも、守るのも、この山を確保したほうが有利だったようだ。向かいの天王山との間は狭く、鉄道、道、川までが集まり、丸見えである。東方は、広大な湿地帯。その向こうに宇治。重要な拠点だった。

 下山途中にある松花堂跡を見る。江戸初期の松花堂昭乗と言うお坊さんの堂跡。画、書、花、お茶、歌が得意だったようだ。建物は、明治の神仏分離の時、解体され、今の松花堂公園に移されたとのこと。発掘調査され、詳細が判っているようでした。

 山を降り、松花堂公園に向かう。昔の街道を南に下る。途中、左へちょっと入った右に菓子屋さんがあり、その裏、南側に五輪塔があり、「小野頼風の墓」の説明があった。この人も、女が死んだのを知ると、放生川に身を投げるのだった。菓子屋さんの際の1mも無い細い路地を入った所。地元の人達が、何百年も守ってくてた五輪塔である。

 八幡市八幡女郎花にある松花堂庭園を拝見。男山の松花堂を庭と一緒に移したもの。

 女郎花の塚があった。以前に比べて、きれいに整備されていた。女郎花が咲いていた。群生しているともっときれいと思う。匂いはよろしくない様だ。以前来た時、入園券があったかどうか覚えが無い。

 茶室がたくさんあった。また、予約すれば、昼食の松花堂弁当が食べられるそうです。

 歌人の吉井勇の碑あり。資料館には、写真、資料がたくさんあった。2,3年この付近に住んでいたようだ。

 バスで、八幡市駅へ戻る。京田辺行きのバスの時間を確認して、昼食のそばを食べた。朝の走井餅に寄る事を忘れて、バスに乗ってしまった。帰りに京都駅で、探したが、走井餅の店は無かった。

 一休寺道バス停で下車。緩やかな登りの一休寺道を、500m行く。昔の薪村(たきぎむら)を行く。以前、車できているが、お寺の付近は覚えがあるが、一休寺道を始め、他の事は、思い出せない。

 門前に、金春流の発祥の地の碑あり。奈良の龍田神社は、金剛流。奈良結崎(ゆうざき)は観世流発祥の地。宝生、喜多の両座はどこかな?

 一休宗純和尚の酬恩庵(しゅうおんあん)一休寺。

 門を入り、紅葉の並木の道を行き、右に曲がると、廟所がある。一休和尚は天皇の子であったようだ。「宗純王墓」とあり、宮内庁の管理とのこと。菊の紋の彫りこみのある門扉だった。自分で立てたと言う廟所を覗き見る。勿論入ることは出来ない。

 

 方丈に上がる。この中に本堂があり、一休和尚の木像をお参りし、北、東、南の枯山水の庭を見る。また、輿(こし)があった。かの森侍者が乗ったであろう輿である。狂雲集に下のような偈頌(げじゅ)、詩がある。

「森公 輿に乗る  鸞輿の盲女 しばしば春遊し  鬱々たる胸襟 秋を慰むるに好し  さもあればあれ 衆生の軽賎  愛し看る 森もまた美風流」

高貴な輿に乗って、盲目の森女しばしば春に遊び。ふさがる胸の想いを晴らすのによい。衆生が軽蔑するならするがよい。わしは森侍者も美しく風流だと、いとしく見るのだ。

 本当に、このようであったかどうか、判りませんが、一休和尚の13回忌、33回忌、の奉加帳に、森侍者慈栢の名が見えるとのこと。これが森女だろうと言うことである。森女もまた、奉加帳に名が載るくらいだから、身分のある、お金のある人だったのだろう。

 お寺のパンフレットや、説明文には、もちろん、森女の事は何も書いてありません。

 和尚の遺偈のコピーを買う。「南」の字が大きい偈である。

    須弥南畔 誰会我禅 虚堂来也 不直半銭   東海純一休

 

 以    上  TOPへ戻る