24 福井 味真野神社 皇子池 芳春寺 紫式部公園 蝉丸の墓 一乗谷 山中峠

2001/08/14

能舞台の名所・旧跡へ


 

 謡曲「花筺(はながたみ)」に「これは越前の国味真野(あじまの)と申す所に御座候、大迹邊(おおあとべ)の皇子に仕え申す者にて候。さても都より御使いあって、武烈天皇の御代を、味真野の皇子に御譲りあり」。天皇の代替わりがあり、田舎の北陸の皇子を天皇に迎えた。継体天皇である。所謂、皇統の断絶、変化 の事を言っている。

 また、「われ応神天皇の尊苗を継ぎながら、帝位をふむ身にあらざれども。天照大神の神孫なれば、・・・・群臣の選みに出だされて、・・・・・」の「群臣の選みに出だされて」は、戦時中は謡ってはいけないと削られたそうです。いやな時代があった。それにしても、 能の言葉は、おおらかに天皇のことを述べるなど、人間の言葉らしく、嬉しくなる。

 武生市の味真野神社を尋ねた。ここは、鞍谷御所跡であり、周りに空掘と土塁を残している。継体天皇の御所だったと言われている。 中世の鞍谷氏、斯波氏も居を構え、山を後ろに控え、城を構える良い位置だったようだ。

 天皇になっても、奈良の都(磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)伝承地は奈良県桜井市池之内の辺)に入るのは、即位後、20年近く、後のことである。時の権力争いが激しかった 、天皇制が未確立の時代だった。と思う。

 日本史年表を見ると、古墳時代後期。最初に現れる和暦名が、継体である。継体元年(507年)から継体25年までの間に3回「都を遷す」と出ている。その頃の事件の記述に、百済、任那など、古い朝鮮の名前が出ている。外に向かっても、勢力を広げようとしていた。軍事の物部氏が活躍した時代。

 謡曲「花筺」。継体天皇は地元の女、照日の前(佐山姫)に御文と花筺を残し、都へ向かった。その後、女は、花筺を持って、狂い歩くようになり、ある日、天皇と再会する。の話である。

 地元には、継体天皇と佐山姫の出会いの大きな看板が掲げてあった。また、今立町の佐山姫(花筺(かきょう))公園には、ここが御所跡であり、継体天皇の子供の産湯の池と言う、皇子池があり。

 武生市の芳春寺をお参り。一時、紫式部が住んだところだそうです。芭蕉の碑があった。

 近くに紫式部公園があり、銅像、歌碑、などが集められ整備されていた。昭和61年に公園が出来た時、歌碑などを集めたとのこと。

 宮崎村 野 に蝉丸の墓を訪ねる。この「蝉丸」も戦時中は上演遠慮になったそうです。田圃の中に琵琶のように盛土され、五輪塔が3基あり、蝉丸は真ん中。この付近には、蝉丸の後裔の人達が住んでみえるそうです。

 一乗谷、朝倉氏の里を廻ってきた。織田信長に滅ぼされた朝倉氏である。発掘でこの谷の全貌がはっきりした。

 町並みが復元されていた。武家屋敷は門と塀で囲まれただけ。商家などは、石の重石の乗った、板屋根の復元家屋が町を成して出来ていた。朝倉氏の館は、山を背景に、堀と土塁を巡らしたものだった。建物の礎石があったが、建物は復元してなかった。

 戦国時代でも、稲作りは、このような谷間がよかったようです。大河の水のコントロールは、江戸に入るまで、出来ていなかった。

 昔の街道、義経などが通ったと思われる、木の芽峠を目指し、今庄から山に入る。地図によれば、車は不可。行ける所まで登る。峠まで徒歩40分の所まで行って来た。一度歩きに来ようと思う。

 山を今庄方面に下り、昔の北陸本線の跡を道にした道を行く。長いトンネルは信号があり、見通しの利くトンネルは、ライトをつけて前方確認の上、突入する。

 山中峠に出る。平安初期に木の芽峠に北陸道が移ったが、山中峠は、地元の人達が使った。近世になり、鉄道が通った。

 なお、先へ進むと、杉津駅の在った所へ出た。敦賀湾の見晴らしがすばらしい。今は、北陸道杉津サービスエリアがある。

 再び、単線のトンネルを1つ1つ確認の上、敦賀へ下った。また、越前岬を含めた海岸道路を走ってみよう。

 

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