2 岩手 胆沢城趾 藤原の郷 中尊寺 金色堂 弁慶墓 高館・義経堂 毛越寺 

1994/08/17〜1994/08/18 作成 2003/06/22

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 水沢市北部の胆沢城趾を尋ねる。坂上田村麻呂の最前線基地。宮城県の多賀城から前進した軍事上の基地だ。今は、石碑と説明看板のみ。
 歴史公園えさし藤原の郷は、20ヘクタールの広大な敷地に 、再現された国内唯一の「寝殿造」をはじめ平安時代の建築物が大小合わせて117棟が立ち並んでいる。 奥州藤原氏初代清衡公の父経清は、現在の宮城県を支配していた朝廷側の役人でしたが、岩手県の豪族「安倍氏」の娘婿になり、江刺に移り住んだと伝えられている。 初代清衡は、江刺の豊田館で生まれ平泉に都を移すまでの約45年間、江刺に城を構え、奥州黄金文化の構想を練っていた。
 中尊寺お参り。山門 本堂 能舞台。
 金色堂は鞘堂で覆われていた。

 芭蕉の「五月雨や降りのこしてや光堂」の句碑あり。

 弁慶墓お参り。中尊寺の門前にあった。
 

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3 宮城 金売吉次兄弟の墓 炭焼藤太墓 

1994/08/17 作成 2003/06/22

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 宮城県金成(かんなり)町の常福寺お参り。金売吉次兄弟の墓がある。兄弟の父、炭焼藤太がこの近くに住み菩提寺の常福寺に墓を作ったらしい。今の墓は、まだ、新品だ。
 炭焼藤太墓が近くにあった。炭焼藤太は謡曲には関わりない。
 高館(たかだち)・義経堂をお参り。藤原秀衡(ひでひら)は、義経にこの高舘を与えた。義経の不運は、じきに秀衡が死んだことだ。その子泰衡(やすひら)等は、父の遺言に背き、義経を襲い、弁慶は立ち往生し、義経は自刃。泰衡等は、頼朝により瞬く間に亡ぼされる。

 見晴らしのよい土地にある。

 毛越寺跡を尋ねる。池のある広い庭があった。元禄2年(1689)、この地を訪れた芭蕉は、悲運の義経主従をしのび、次の句を詠んだ。

  「夏草や 兵どもが 夢の跡」

 

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4 秋田 狭布の里・錦木塚 

1994/08/19 作成 2003/06/22

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 狭布(きょお)の里・錦木(にしきぎ)塚を尋ねる。謡曲「錦木」の地である。

 旅僧が、ここ狭布の里で、女は細布、男は錦木を持った夫婦に合い、その謂われを尋ねると、細布は鳥の羽根で織った細い布で、胸あい難き恋に例えたもの。錦木は、色とりどり飾った木で、女の門に立てて求婚の印にするものと答えた。3年錦木を立て続けて、なお思いを遂げずに死んだ男の塚、錦塚に案内して、その中に入ってしまう。跡を弔うと、2人が現れ、いろいろ言うが、仏縁を得て2人は喜んで消えて行く。そんなすじだ。

 

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5 青森 貴船神社 善知鳥神社 外ヶ浜 

1994/08/20 作成 2003/06/22

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 JR野内駅の近くの貴船神社お参り。義経が蝦夷に落ちのびる時に、この地で海上安全を祈願して、京都・鞍馬の「貴船大明神」を勧請した。また、三河の国・矢矧(やはぎ)の長者の娘。浄瑠璃姫は義経が平泉で死んだと聞いて、義経を慕って陸奥へと旅発つ。そして、ようやくこの地で義経にめぐり会うが、姫は長旅の疲れから病にかかり、先を急ぐ義経は、鷲尾三郎に看病をたくして、別れを告げる。姫はまもなく義経の平安無事を祈って亡くなったと言う。

 天狗岩があった。天狗を彫った石だが、今は小さくなってしまったそうだ。

 青森市内の善知鳥神社お参り。謡曲「善知鳥」の地。最北端の謡蹟である。北海道には、謡蹟はない。

 「娑婆にては善知鳥やすかたと見えしも。冥途にては化鳥となり、罪人を追っ立て鉄(くろがね)の嘴(はし)を鳴らし、羽を叩き銅(あかがね)の爪を研ぎ立てては。眼をつかんで肉(ししむら)をさけばんとすれども、猛火の煙に咽んで声を上げ得ぬは、鴛鴦を殺しし科(とが)やらん。遁げんとすれど立ち得ぬは、羽抜鳥の報いか。

 善知鳥は却って鷹となり、我は雉とぞなりにける。逃れ交野の狩場の吹雪に空も恐ろし、地を走る犬鷹に責められて。あら心うとうやすかた、安き隙なき身の苦しみを、助けてたべや御僧。助けてたべや御僧と言うかと思えば失せにけり」

 普通は成仏して心安らかに消えるのに、責められた、まま消え失せる、もう、誰も助けてくれない!

 外ヶ浜を尋ねるが、コンクリートの護岸に囲われ、善知鳥の壮烈なシテの面影に思いを寄せることも出来ない。
 

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