31ー2 東尋坊 越前熊坂 加賀熊坂 吉崎御坊   福井 石川 富山

15km       2004/05/10〜2004/05/13

能舞台の名所・旧跡へ


 

2004年5月11日

 今日も雨。東尋坊を訪ねた。8時半。店は戸を開けたばかりで、まだ、商売気はない。静かに東尋坊を見学出来た。ここも垂直の岩以外は何も思い出す物はなかった。

 沖に雄島が見える。

 天気が良ければ、海から見るこの奇岩も綺麗だろう。

 謡曲「熊坂」に「加賀の国には熊坂のこの長範を始めとして屈強の手柄のしれ者ら七十人は与力して・・・」とある。

 福井県金津町熊坂を訪ねた。越前熊坂である。何も無し。

 後で、インターネットで探してみると、「物見の松」の石碑があるとのこと。

 8号線で、牛の谷峠を越えて、石川県加賀市熊坂へ。加賀熊坂である。

 「熊坂長範誕生地」の碑が建っていた。

 後で、調べてみると、長野県にも、熊坂や長範山があるようだ。

 又、越前に戻り、吉崎御坊を尋ねた。

 本願寺吉崎別院お参り。今は小さなお寺さんである。

 門は念力門と言い、秀吉が京都本願寺に寄付した物。昭和24年、京都本願寺から貰い請け、信者100人で、250kmの距離を荷車16台を連ね、念仏の掛け声を掛け あい、吉崎まで運び、建設した、と説明があった。

 

 境内に、資料館があ り。「嫁威しの肉付きの面」の人形があった。信心の厚い嫁が吉崎通いが多いので、信心のない姑が、鬼の面を着けて脅かしたが、その面が取れなくなってしまったと言う、よくある話 。

 「蓮如上人の御歌」の歌碑があった。

  「浜坂の山のあなたにうつ波も夢おどろかす海の音かな」 蓮如

 東本願寺吉崎別院お参り。

 山科の別院、名古屋の別院、東西それぞれお寺があった。

 小高い丘の上の吉崎御坊跡へ登る。蓮如が作り、登ったであろう 、唯一残っている、当時の参道を登る。国指定史跡の看板在り。

 途中、嫁威し肉付き面拝観所の看板を掲げたお寺さんがあった。

 祐念坊霊空のお寺願慶寺。

 吉崎御坊跡は整備され公園になっている。見晴らしも良い。戦国の城の位置としても最適。山科の御坊も城そのものであった。

 蓮如は、人間らしくなることと人を殺すことをどの様に説明したのかな、と思う。一向一揆では、むしろ旗を立てて、喜んで死んでいったと言う。

 今の、イラクを巡るイスラムの聖戦と同じだろう。一般の信者は、喜んで、人を殺し、死んでいったのだろう。信ずること以外、生きる望みがなかった。

 本堂跡の碑あり。

 蓮如の銅像 高村光雲の作で、昭和9年に出来た。

 蓮如お手植えの松 吉崎御坊建設の時の松であるが、今は枯れて切り株のみ。

 2代目と言う若い松があった。

 蓮如腰掛け石もあり。吉崎御坊建設当時の物で、当時から腰掛け岩と言っていた。当時の絵にも書かれている、と説明があった。

 本光坊了顕の墓。蓮如の弟子、火事に遭い、親鸞真筆の教行信証を火の中に取りに行き、焼け死んだと言う。「腹ごもりの聖教」と呼ばれる教行信証が 現存していて、重要文化財に指定されている。

 蓮如弟子、祐念坊霊空の墓。俗名を和田十重兵衛と言い、蓮如が寄宿した縁により、1族30人衆を率いて真宗に帰し、常随の弟子となった。

 見玉尼の墓。蓮如の2女。25歳、吉崎で死去。子だくさんの若い時の娘だったためか、最愛の娘だったらしい。

「蝶となりてうせぬとみゆるは、そのたましい蝶となりて法性のそら極楽世界涅槃のみやこへまいりぬる・・・」 の文が残っている。

 加賀千代女の句碑。 千代女は信徒だった。  「うつむいた処が臺や菫草」

 出来たばかりの蓮如上人記念館拝見。飲み物付きで500円の拝観料であった。蓮如館、民話館、自然館、鳳凰閣の建物、蓮如の教えを織り込んだ庭あり。40分程居たが、他の入場者はなかった。

 蓮如館は蓮如の御文(おふみ)(本願寺派は御文章(ごぶんしょう))、名号、絵、像、吉崎御坊の復元模型、シアター ルームがあった。

 庭は、蓮如の教え、「五重の義」を表しているとのこと。芝、草木、池、水、岩で出来ていた。順路に従い歩くと、最後に、蓮如の座像があった。

 なお、左の写真の奥の方に見えるのが「鹿島の森」である。

 弥陀三尊の岩

 蓮如像

 民話館。富山県砺波の豪農の家を移設した物。125坪、1881年の物と説明あり。
 内部の構造、立派な材料を誇示する構造だそうだ。それにしても立派な梁、天井が高く、 広く、羨ましい限り。

 今、このような家に住める人は居ないだろう。

 越前和紙人形

 左:鹿子の御影(かのこのごえい。蓮如の母親は6歳の時、蓮如の元から去ったと言う。その時、蓮如を描いて母が持って去った、有名な「鹿子御影」今は、蓮如の元に残った下絵を元に、蓮如が描かせた物が現存。

 母親は、身分が低い人だったので、蓮如のために、身を引いたらしい。この母親の記事はほとんど見たことがない。資料が何もないようだ。

蓮如も、母が恋しかったのだろう。 自分は、妻が死ぬと、新しい妻を娶り、生涯、5人の妻に、27人の子を生ませている。85歳で死ぬ直前まで、子供を作っていたと言う。凄い精力、頭が下がる。又、妻以外の女には、子を生ませてないそうだ。妻以外の女に生ませた子の出てくる小説はある。

 越前竹人形
 自然館で、福井の自然を見て、鳳凰閣で、コーヒーをご馳走になり、加賀の国へ。
 

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