11 崇道天皇宮 鴨山口神社 六地蔵 駒形大重神社 番水の時計 九品 寺 葛城高丘宮跡 一言主神社 長柄神社 極楽寺 橋本院 高天原 高天彦神社 鶯宿梅 蜘蛛窟 高鴨神社 風の森神社 船宿寺 1996/01/05 作成 2003/07/13
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近鉄御所駅から歩く。 |
崇道(すどう)天皇宮お参り。
平城京遷都に関 与した藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に連座して無実の罪で淡路島に配流される途中、抗議の断食で死んだと言われる早良親王(さわらのみこ)の事。桓武天皇の弟。勿論、天皇にはなっていない。桓武天皇が怨霊鎮魂のため「崇道(すどう)天皇」という諡号を与えた。首謀者は、万葉歌人の大伴家持と言われている が、事件の少し前に死んでいる。藤原氏と大伴氏の勢力争いだったのだろう。 |
鴨山口(かもやまぐち)神社お参り。古くから、皇居用の材木を献上する山口祭(やまぐちさい)を司った神社と説明あり。 こじんまりとしてあり、余り知られていない。 |
葛城の道は、奈良盆地の西南端に位置する御所市の西部の葛城・金剛山系の麓を南北に結ぶ全長約13kmの里道。葛城山麓は朝日を受ける好立地と、山から流れる清流によって古代から豊かな穀庫地帯
で豪族葛城氏が繁栄した地である。又、この地方は古墳文化以前の日本の神々の信仰や、数々の神話のふるさとでもあり、格調高い古社が多い。
地元の人の手作りの案内板が似合う、葛城の古道を行く。土の道で有り難い。 |
葛城の道の始発点、猿目橋近くの住宅地のまん中に、巨石に刻まれた六地蔵がある。
田畑を潤して多くの恵みをもたらす葛城山の清流も、ひとたび牙をむくと大自然の脅威を見せつける。六地蔵巨石も室町時代に発生した大土石流でこの地に流れ着いたと言われている。人々は度重なる災害や疫病から逃れるため、又、来世の極楽浄土を願う強い信仰心から、この巨石に六体の地蔵を彫ったのであろう。 |
駒形大重(こまがたおおしげ)神社お参り。
葛城の道の楢原(ならはら)地区石川にあり、祭神は 滋野貞主命外一座不詳とされている。本社は「延喜式神名帳」にある 葛木大重神社を駒形神社 に合併して現在のように祀られているのであると言う。 滋野貞主(しげのさだぬし)は平安前期の学者。滋野貞主が神さんか?不勉強で判らず。 |
境内神社には、春日神社、市杵島比売(いちきしまひめ)神社、八幡神社、神明神社、琴平神社の五社がある。 本社に駒形の名のいわれであるが、地元の古老の話によるとその昔、農耕に使役された馬を祀ったので、 その名が今に残っているのではないかとの事であるが、駒形の名のためか馬にかかわる人々が今もこの神社 に参拝されると言う。 |
番水(ばんみず)の時計は、共同管理で争い避け
、公平に時間を定めて水を配分するためのもの。水の乏しいこの地方の知恵だった。
番水時刻表は、5月末から9月下旬まで使われ、日の出や日の入り時間に合わせて、取水時間も調整しているそうだ。必死で、正確に、みんなで順番に、その役をこなしたんだろう。 |
九品寺(くほん じ)お参り。「九品寺の千躰石仏
」が知られている。
九品寺は浄土宗の名刹である。この寺を有名にしたのは、寺の裏山の地下から総数1800余体の石仏が発掘された。伝承によると、南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方について北朝と戦ったとき死んだ兵士たちの「身代わり地蔵」として奉納されたものと言う。今、寺の裏山の段々上に整然と並べられている。 |
綏靖(すいぜい)天皇葛城高丘宮(かずらきのたかおかのみや)跡あり。神武天皇の子で2代目天皇とのこと。葛城の高丘に宮 を営んだ。84歳まで生きた。 |
一言主(ひとことぬし)神社お参り。
雄略天皇が葛城山で狩をしている時、この神が現れたので、天皇が「お前は何者だ」と問いかけた所、「私は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と 言ったそうだ。雄略天皇は恐れひれ伏したが、やがて、共に狩を楽しみ、神は久米川(現曽我川)まで天皇を送って行った。その後、この神と諍いを起こし、 天皇が強く、神さんは土佐に流されたそうだ。 |
樹齢1200年の銀杏の木があった。 |
謡曲「土蜘蛛」の蜘蛛の故郷で、蜘蛛塚があった。蜘蛛は大和朝廷の言うことを聞かない部族の事だ。退治されたり、流されたり、また、親類となって大和朝廷に吸収されていった。
「葛城の襲津彦(そづひこ)真弓荒木にも頼めや君が吾が名のりけむ」 万葉集11−2639 ここは、葛城氏の本拠地だった。襲津彦は武将で葛城氏の祖と仰がれている。「葛城の襲津彦の強弓の荒木に頼むではないが信頼してあなたは私の名を人に明かしたのか」の意。善悪を一言で言い放つ一言主神の信仰と襲津彦の頼もしい伝承とが生きている葛城の地の乙女の歌である 桜井満博士。歌碑があった。堂々としていて、素直で良い歌だ。 |
長柄
(ながら)神社お参り。
県の重要文化財に指定されている。鎌倉時代の棟札(むなふだ)が残っているとのこと。長柄の古い家並みと共に、落ち着いた雰囲気は残したいなーと思う。 |
極楽寺お参り。10世紀の創建。楠正成の祈願寺とも言われた。兵火で何度も焼失している。 |
200mほど山を登る。橋本院お参り。8世紀、行基が開いた高天寺(たかまでら)の
一院だった。初めは奈良の興福寺に属し、後に弘法大師の真言宗に属した。また、唐招提寺を開いたことで有名な鑑真和尚も聖武天皇の命により高天寺の住職になっている。格式の高いお寺だった。
歌の看板があり、次の歌が書かれていた。「よそにのみ 見てややみなむ 葛城や 高間の山の みねのしら雲」 新古今集 11−990 |
少し、山に入った所に、高天原
(たかまがはら)があった。天照大神が支配する土地のことらしいが地上にもあった。しかし、おかしな気はしない。素直に受け入れられる雰囲気の土地だ。
「葛城の高間の草野早領(はやし)りて標指さましを 今し悔しも」 万葉集 7−1337 (高天の里にこんな美しい娘さんがいたことをもっと早く知っておれば命の限り抱きしめておくのであったのに。残念、残念。今はすでに人妻になってしまっていたよ) |
高天彦神社お参り。 集落を抜けた、うっそうと茂った老杉の大木が両側に並んだ参道の奥にひっそりと社殿があった。葛城王朝を築いた葛城一族の祖神を祭するこの神社は、今も伝説の地にふさわしく、神話のような様子だ。 |
高天彦神社の前にある鶯宿梅は昔、高天寺の小僧が若死したので、その師が嘆いていたら梅の木に鶯がきて、「初春のあした毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたと言う。そこで、この梅を鶯宿梅と呼ぶようになったと言う。 |
蜘蛛窟は高天彦神社参道の手前・神社を背にして左手にあり千本の足をもつ大きな土蜘蛛がすんでいた所。天皇の勅使が矢で殺して土蜘蛛を埋めたと伝わる蜘蛛塚もある。 |
高鴨神社 お参り。古代豪族の鴨一族の氏神社で、京都の上賀茂・下鴨両社の元社にあたると言う。 |
風の森神社お参り。御祭神は、風の神の志那都比古神(しなつひこのかみ、級長津彦命)で、古事記によると、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が、淡路島などの「国を生み」、更に水分神ら17柱も産み、次の34番目に産んだ神で、風の森峠を吹く強風を鎮めるために祀られている。 |
船宿寺 (せんしゅくじ)お参り。今から1200有余年前に行基菩薩が夢で、船形の岩(寺号・船宿寺の由来)の上に薬師如来を祀るよう告げられ開祖した。現在その岩場には巌舟権現(いわふねごんげん)が祀られている。 |
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