2 本能寺 走井 蝉丸三社 関寺 平等院 扇の芝 平宗盛終焉の地 不破の関 常磐御前墓 野上の里 長範物見の松 養老の滝  (京都 滋賀 岐阜)

1992/09/01〜1992/09/02 作成 2003/05/11

能舞台の名所・旧跡へ


 

 京都、信長最後の地、本能寺お参り。この寺は、今、新京極辺りにあるが、信長が殺された本能寺は、少し西よりにあったが、光秀に焼かれた後、移設したとの事。

 信長公廟、本能寺変戦没者合祀墓があった。

 逢坂の月心寺お参り。走井の井があり、水が盛りあがりあふれる井戸あり。戸が閉じられ、職人が庭の手入れをしていた。

    「走井の かけひの水の すずしさに 越えもやられず 逢坂の関」  藤原清輔

 逢坂の峠に、「逢坂山関址」の石碑。

 その際に、蝉丸神社(分社)あり。蝉丸を祀る。蝉丸神社は上社、下社、分社の三つに分かれている。大津側の坂の中間に上社、大津の町の手前に下社。

 蝉丸は、無位の役人とか、天皇の子だとか言われているが、余り定かでないようだ。琵琶の名手だった。

 下社に、蝉丸の歌碑があった。

    「これやこの 行くも帰るも  別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」  蝉丸

 下社の近くに、「旧関寺町」について説明があった。

 「逢坂関の東側にあたるこの付近には、関寺と呼ばれる大寺陀あり、町名もそれによって名付けられた。関寺は、関寺大仏で知られ、平安時代には、公家の参詣で賑わった。が、今は、長安寺の境内に残っている牛塔にその名残をとどめるのみです」

  謡曲に「関寺小町」がある。この関寺の話。小町塚もあった。

 9/2 平等院へ。川幅一杯の水を流す、たびたび戦場となった宇治川を改めた見直した。

 宇治橋の近くの、橋姫の橋姫社をお参り。宇治十帖の橋姫での「光源氏の弟、八宮の姫君である大君(おおいきみ)と中君(なかのきみ)」、謡曲「江口」には、「宇治の橋姫も、訪はんともせぬ人を待つ身の上とあわれなり」とあり、また、本来の宇治橋の守護神としての「宇治の橋姫」の橋姫がある。

 宇治の平等院。

  謡曲「頼政」に「唯一筋に老武者の、これまでと思いて平等院の庭の面。これなる芝の上に、扇をうち敷き鎧脱ぎ捨て座を組て」とある。ここを「扇の芝」と言う。

 頼政の墓。

   辞世の歌。  「埋木は 花咲事も なかりしに 身のなるはてぞ哀なりける」

 平家終焉の地が、滋賀県野洲町にある。平家の総大将平宗盛親子が、義経に斬られた所である。その他の平家の主だった生き残りは、建礼門院と「平家にあらずんば人にあらず」と言った、清盛の妻の兄、時忠だけである。時忠は能登に流されて死んだ。建礼門院は寂光院で、その後30年程、一族の供養をする事になる。

 岐阜、関ヶ原に不破の関 。古代の日本三関の1つ。

 この近くに、義経の母、常磐御前の墓がある。牛若丸が奥州に逃げた事を聞き、後を追ったが、ここで山賊に殺された。と説明があった。

 関ヶ原の少し東の野上 は、昔、宿場だった。謡曲「班女」の主人公花子は、そこの長者の娘だったそうだ。その長者の屋敷という家が、今も残っていて、花子の木像や、班女化粧池もあるとのこと。

 関ヶ原の東、垂井に、 謡曲「熊坂」の主人公、熊坂長範の物見の松がある。古墳の上に立つ松である。

 三重県との県境に近くの養老町に、養老の滝があり、30分程歩いて、見てきた。

 

 

以    上  TOPへ戻る