19 横川 松井田 板鼻 安中 佐野の船橋 高崎 倉賀野 新町 本庄   群馬

69km   1997/10/10〜1997/10/12  作成 2003/04/20

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11 群馬 碓氷川 松井田 佐々木盛綱墓(松岸寺) 板鼻 佐野船橋

1997/10/10〜1997/10/12  作成 2003/04/20

能舞台の名所・旧跡へ


 

10月10日

 

 碓氷峠の鉄道はもうない。東京回りで、横川駅へ。

 もう1度、峠の釜飯を食い、歩き出す。いよいよ関八州の上野の地。利根川の支流碓氷川に沿って下る。

 百合若(ゆりわか)大臣の足跡石。百合若大臣が足で踏みつぶしたので石がへこんだといわれるもの。力が相当あったらしく大きな弓と長い矢で、川向こうの山に向け、「よし、あの山の首あたりを射抜いてみよう」と思い付き、満身の力を込めて射放った時、後足を踏ん張ったのがこの石と言われている。

 百合若は伝説上の人物で平安初期四条左大臣公光の子といい、北九州に多くの話が伝わっている。百合若がそのとき使った弓矢が妙義神社奉納されているとの事。

 碓氷神社お参り。

 1997.12.28 草津温泉に行く途中、立ち寄った。

 夜泣地蔵お参り。右側の大きな地蔵が夜泣地蔵。昔、荷を運んでいた馬方が荷のバランスをとるために脇に落ちていた地蔵の首を付けて深谷まで行った。そしてこの首を深谷に捨ててしまったが、その後夜になると「五料恋しや」と泣く声が聞こえるので、深谷の人が哀れに思ってこの首を五料に届け、胴に乗せたという。なお、五料は土地の名前。

 夜泣地蔵の前に大きな石があるが、これは以前は丸山坂の上にあったという「茶釜石」である。叩くとカンカンと茶釜のような音が響くのでこう呼ばれている。

   「五両(五料)では あんまり高い 茶釜石 値(音)打ちを聞いて 通る旅人」  蜀山人

 鉄道の北に、五料の茶屋本陣あり。大名のお休み所との事。拝見。

 妙義山を写真に撮ったが、真っ白けだった。

 補陀寺(ふだじ)お参り。関東一の道場という意味の「関左法窟」という額を山門にかける。境内には前田利家らに負けた、小田原北条氏の重臣で、松井田城主だった大導寺政繁の墓があるそうだ。

 寺の裏山は、松井田城趾。

 謡曲「鉢木」の主人公佐野源左衛門常世が、最明寺時頼を鉢の木を焚いて泊めた返報に、貰った上野(こうづけ)の松井田である。そのほか、越後の桜田、加賀の梅田、3ヶ庄を貰う。上野の碓氷川、板鼻、佐野のわたり、の地名が出てきている。

 松井田宿を過ぎ、郷原の妙義道常夜灯拝見。妙義山への道標、信仰心の現れ。

 日枝神社お参り。

 地蔵堂、時の鐘のある真光寺お参り。

 安中の杉並木。

 安中本陣跡の小さな看板あり。

10月11日

 

 中山道を外れるが、松岸寺をお参り。 謡曲「藤戸」のワキ佐々木盛綱の菩提寺である。五輪塔あり、盛綱の墓とも言われている。盛綱は、平氏との藤戸の戦いで、地元漁師に海の浅瀬を言わせて殺した武将。

 板鼻宿の川の流れ、碓氷川は宿の南側を流れている。 謡曲には、「下す筏の板鼻や」とある。

 達磨寺お参り。ナチを逃れて、日本に来て、日本を紹介したドイツの建築家ブルーノ・タウトの住んだ、洗心亭があった。

 烏川に架かる君が代橋の右岸に万日堂あり、お参り。みかえり阿弥陀安置。

 高崎宿。高崎城趾が公園となっていた。

 その隣に頼政神社あり。お参り。松平氏が高崎藩主に封ぜられた時、先祖源頼政を祭ったものとの事。頼政は、以仁王を奉じて平家追討を図るが、宇治平等院の扇の芝生で自害した。

  謡曲「船橋」の佐野のわたり。万葉集「上毛野 佐野の船橋 取り放し 親はさくれど 吾はさかるがへ」 東歌 の歌碑があり、今、烏川は遙か向こうに見えるが、昔の渡しの場所だろう。

 「船橋」は恋愛もので、その文句の一部。「宵よいに 通い馴れたる 船橋の 冴え渡る夜の 月も半ばに 更け静まりて 人も寝に臥し 丑三つ寒き 川風も 厭じ逢瀬の 向かいの 岸に見えたる 人影は それか 心嬉しや 頼もしや 互いに それぞと見えし中の 橋を隔てて 立ち来る波の より羽の橋か かささぎの 行き合いの 間近くなり ゆくままに 放せる板間を 踏み外し かっぱと落ちて沈みけり」

 近くに、軽自動車以上の車両の通行を禁じる佐野橋があった。烏川に架かる佐野橋は鉄筋の橋になっており、昔の面影は、この橋の方にある。船橋は、小舟を繋げ泊め、その上に板を敷いて歩けるようにした物。江戸時代以前の一般的な橋の形態のようである。

 佐野源左衛門常世神社お参り。 謡曲「鉢木」の常世の神社だ。社には、常世が梅桜松の鉢木を切り焚いて暖を取る絵が掲げてあった。

 本領を取られて、わびしい生活をして、時頼にあった家がここだったそうだ。

 「一夜の宿を御貸し候へ」と頼まれ、一度は宿を断るが、大雪に難渋する時頼を見て、妻の勧めによって呼び戻して一夜の宿をする。

 定家神社お参り。あの藤原定家を祭る。 謡曲「鉢木」に、「駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ」の歌が出てくるが、新古今集にある定家の歌だ。

 この場所も、常世の家だそうだ。この歌が引用されているので、神社が出来たとの事。

10月12日

 

 倉賀野(くらがの)本陣跡の石碑あり。宿の東外れに日光街道との追分があり、阿弥陀堂があった。

 新町の手前、温井(ぬくい)川弁天さんの境内に、芭蕉の句碑あり。清水が湧いていたらしい。

      「ふすぶより はや歯にひびく 清水かな」   芭蕉

 新町宿東外れに八坂神社があり、ここにも句碑あり。昔は、大木の柳と柳茶屋と言う茶屋があった。

      「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」   芭蕉

  神流(かんな)川の左岸に、神流川古戦場跡の碑があった。信長が死んだ時、上野厩橋(まやばし)の滝川一益と小田原北条氏との戦いで、一益の負け戦。

 神流川を渡ると、埼玉県、武蔵の国。

 本庄宿の西端の金鑚(かなさな)神社お参り。

 浅間山が綺麗に見えた。

 

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