12 上松 木曽福島  長野

20km   1996/11/03  作成 2003/03/26

中山道へ

21 長野 寝覚ノ床 木曽の桟 

1996/11/03

能舞台の名所・旧跡へ


 

 小野の滝が国道右、JR中央線の向こうにあった。高さ数メートルで水量は極めて少量。昔は、直下木曽川に落ちる、と言われ見応えがあったようだ。

 すぐ、旧国道に入り、大分登る。寝覚めの床へ曲がる角に、そばの越前屋、民宿たせやがあった。昔ながらの建物であるが、お客と歩く人、動く車は、全然無し、さみしい。

 木曽川まで、相当の下り。国道に出た所に、今の本店、そばの越前屋があり、お客で一杯だった。

 寝覚ノ床は、電車では、ほんの一瞬だが、結構、歩きでがある。ここには、浦島太郎の伝説がある。竜宮から帰って、ここで暮らしていたが、ある日玉手箱を開くと300歳の翁になってしまった。しばらくは土地の人に霊薬を授けていたが、いつの間にか立ち去り、後は弁財天の像が残っていた。これが、ここ の臨川寺の始まりだそうだ。川の中、奇岩の上にも祠があった。

 謡曲「寝覚」は、延喜の御代に寝覚の床の三帰り(みかえり)翁が寿命めでたき薬を与えると聞いて、勅使が立つ。勅使は老翁に会い、寝覚ノ床の謂われを聞くと、三帰りの翁は生所も知らず出所もなく、寝覚ノ床二千歳を送る中、寿命めでたき薬を服し、3度若やぐ故、三帰りの翁と名づくと言う。
  そして、天女が天降り舞う中に、三帰りの翁が現れ、さらに、川底から二龍が現れ、夜遊のの戯れを無し、やがて勅使に薬を与えて、木曽の桟をうち渡り明け方の空に消え去る。

 これが、浦島太郎に変ったんだろう。

 上松の町にはいると、尾張藩上松材木役所御陣屋跡があった。藩の直轄地で、100人近い役人がいたとの事。大事にしたんだな、その為、よい森林が残ったとも言える。

 屋根の傾斜の少ない町並みが、よく残っている。十王橋が、国道との合流点にあった。

 木曽の桟(かけはし)を見る。桟は垂直の岩盤に丸太、板、藤づるで造り、吊った物で、川を横断する物でない。焼け落ちた事があり、尾張藩が長さ100m、幅7m弱、高さ13mの物に 作り替えた。

 写真の石積が尾張藩の作ったもの 現在の国道も、同じ構造だ。

 芭蕉、子規 らの句碑、歌碑があった。

     桟や命をからむ蔦かづら  芭蕉

     かけはしやあぶない処に山つつじ
     桟や水へとどかず五月雨
     むかしたれ雲のゆききのあとつけて
          わたしそめけん木曽のかけはし  子規

     浪と見ゆる雲を分けてぞ漕ぎ渡る 木曽の桟底も見えねば 西 行

    かけはしふめば旅のこころのゆるるとも  山頭

 白川阿古多丸の墓があった。

 白川阿子多丸は京都の北白川に住む宿衛少将重頼の一子で、母が突然の病でなくなり、父は後妻を迎えた。この継母にいじめられ阿子多丸は家出し叔父のいる奥州に向かった。しかし木曽路の板敷野の集落まできたとき病のため15才の若さでなくなってしまった。

  「この山に捨つる命はおしからであかではなれし父ぞ恋しき」の辞世の句を残した、と伝えられる。

  その後、夢枕にたった阿子多丸からそのことを知った父重頼は、姉利生御前とともにこの地を訪れた。姉の利生御前は、「先たつも後るも同じ草の露何れの秋ぞあはで果つべき」の一首を残し墓前で自害してしまった。 このことを知った父重頼は姫をねんごろに弔い、初七日の後にまたしても墓前で自害してしまった。

 この話を風の便りに聞いた継母は、自分の所業の浅ましさを知り、京からこの地を尋ね、また墓前で自害したと伝えられる。

 

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