2 鎌倉 稲村ヶ崎 阿仏尼邸旧跡 11人塚 稲村ヶ崎 満福寺 小動神社 江ノ島 龍が口明神 竜口寺 御所5郎丸陣屋跡 神奈川 18 km 2001/07/01
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鎌倉駅乗換えで、江ノ電極楽寺駅で降りた。 極楽寺をお参り。阿仏尼の住んだ場所を、地元の人に何人かに聞いたが分からず、極楽寺の際の道を登る。月影地蔵さんまで行くが分からない。お地蔵さんをお参りして下る途中、中年のご婦人に聞くと、江ノ電車庫の向こうの踏切を渡った所との事。 |
踏み切りの際の狭い場所に、藤原定家の子為家の室、冷泉為相の母・・・の説明した碑があった。先妻の子と自分の子の相続問題で、鎌倉に訴訟に出向き、ここで亡くなる。十六夜日記の作者である。しっかりした母親のようです。
今は、モダンな家が並んだ山裾の新興住宅地だが、碑の家の字は「邸」であった。どんな程度の家だったのだろうかと思った。 途中、11人塚をお参りして、稲村ガ崎に出た。今は岬の山を割って真直ぐな道が通っているが、昔は、山は急峻で海が迫り、難所だったようです。七里が浜の海が広がる。 |
新田義貞が干潮時にこの岬から鎌倉を奇襲した。義貞の作戦勝ち。「史跡稲村ガ崎新田義貞徒渉伝説地」の新しい石碑があった。
海岸通を行く。西田幾多郎博士歌碑、行合川、顕証寺。遠く見えた江ノ島がだんだん近づく。義経腰越状の満福寺へ寄り、まずはお参りを済ます。 |
小さなお寺さん。
頼朝への許しを請う手紙、腰越状がガラスケースに収まっていた。義経は平家を滅ぼし、意気揚々として威張って鎌倉入りを思っていたろうが、ここで足止めを食う。何がなんだか分からなかったろう。それにしても、弁慶などの取り巻きは、どうしていたのだろう、言うことを聞かない人になってしまっていたのだろうか。
また、それまでの国司、郡司などから、自分の守護、地頭に実権を移させ(すでに、武士は国司などの言うことは聞かなくなっていたと思われる)、名実ともに武家政治基盤の確立に走っていた政治家頼朝に上手に使われてしまったのかな。腰越状は5月。11月には朝廷は守護地頭の設置を許している。 義経は、近江篠原で宗盛を切り、京都に帰っている。勉強不足で確認はしていないが、「吾妻鏡」「玉葉」には、これ以降、義経の記録はないようです。 能「船弁慶」で、一度、西に逃げるが、大物の浦(だいもつのうら)の遭難を経て、安宅の関を通り、奥州藤原氏へ行った話がある。頼朝による藤原氏の滅亡。頼朝の筋書き通り気がしてならない。 最初からすべて仕組んだとは思われないが、その時々の状況を上手に利用して、自分の思惑を果たす感じが強い。 |
このころ、西行が頼朝と会い、銀の招き猫を貰って、門前の子供にくれてやったと記録にあるようです。したたかな西行さんは、捨てたりせずに奥州藤原氏の手土産にして、東大寺への金の勧進をものにしたのではないかな。多分、義経のことも知っていたに違いない。など等、ついついサラリーマンに戻ってしまう。
この4年後の衣川での弁慶立ち往生など、襖絵があった。拝観料は寸志投げ込みだった。硯の池あり。湧き水があったようだ。 万葉集14−3365「鎌倉のみごしの崎の岩崩(いわくえ)の君が悔ゆべき心はもたじ」がある。みごしの崎は稲村ガ崎と昔から言われているようだが、この小動崎(こゆるぎ 腰越の崎)には、今も岩崩が見られる。この岬かもしれない。今、小動神社がある。お参り。目の前が江ノ島。 江ノ島岩屋海岸行きの定期船に乗る。小学校の修学旅行で1度来たことがあるが、全然思い出すことが出来ない。 |
謡曲「江野島」、江ノ島の縁起を謡った縁起物。弁財天、龍口明神が登場して、国土の守護を誓って消える筋。江島神社辺津宮、中津宮、奥津宮、三宮の神社。お参り。観光客が多いので早足の歩きが出来ない。帰りは、江ノ島弁天橋を渡る。 |
街道に戻り、龍の口刑場へ。天変地
異が立て続け、立正安国論を執権時頼に送り、治世の要道を説く。その後、また、幕府を非難し、龍の口で処刑されようとするが、刀に光が走って、処刑は中止となり、佐渡流刑となる。日蓮龍の口法難の地である。日蓮50歳。
龍口寺お参り。江ノ島の雑踏に比べ、参詣人、われ1人。隣の龍の口明神をお参り。すっかり荒れた小さい祠だった。 湘南モノレールに乗り、御所五郎丸屋敷址を訪ねる。西鎌倉駅下車。駅前交番を尋ねるも不在。机の上に案内用の手書きの地図が置いてあったので、1部貰い、よく見ると五郎丸公園と表示がある。江ノ電の分譲団地の中だ。大分 の距離があるが、歩くことにする。 |
その団地の住人に尋ねるも知らない。団地案内看板を何気なく見てみるとあった。早速行く。草ぼうぼうの小さな公園になっており、御所五郎丸屋敷跡の石碑を見つけた。ようやく見つけた。 |
本日歩いた概要図
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