3 藤沢 片瀬 常立寺 元使の塚 西行  もどり松 一遍上人地蔵堂 愛蔵寺 諏訪神社 馬鞍橋 鵠沼の沼 大平橋 宝寿寺 宝泉寺 三つ又  神奈川

14 km     2001/08/12

西行・一休など    鎌倉街道へ


 

 日蓮の龍の口法難の処刑場跡を過ぎて、車道の1本裏の道を北に上がり、湘南モノレールの江ノ島駅前を通り、片瀬に入る。 西行の戻り松、古い道標があることから、昔からの鎌倉街道、片瀬街道と思われる。

 湘南モノレールの江ノ島駅前を過ぎてすぐに、常立寺があり、文永の役の翌年、降伏勧告に来て龍の口で殺された、元使 杜世忠(とせいちゅう)ら5人の五輪塔があった。

 北条時宗は会いもせずに殺したようだ。今、考えると無謀なことをしたものと思う。運良く吹いた神風によって、弘安の役の蒙古軍は撤退し、その後の来襲もなく、無事に収まったが。

 杜世忠の辞世の詩が、新しい石碑に刻まれていた。文献が残っているものと思われる。

 「出門妻子贈寒衣問 我西行幾日帰 来時儻佩黄金印見蘇秦不下機」  (門を出でて妻子寒衣を贈り問う わが西行く日にして帰る 来る時かりそめにも黄金の印を佩し蘇秦を見て機に下らざることなかれ) 。残念ながら日本語になっても、十分、理解できないが。

 何代目かの「西行のもどり松」。見返り松、ねじれ松とも言われ、枝が西を向いているのが、特徴だそうです。昔、西行がここまで来たとき、この松の枝振りが立派だったので、都恋しくなり、思わず見返って、枝を西にねじったと伝えられているとのことです。 或いは、気に入らない頼朝に会うのが嫌だったのかもしれない。もとは本蓮寺の門の際にあったそうですが、今はお寺から離れている。お寺が小さくなったので離れてしまった、が本当のようです。 本連寺お参り。

 鎌倉殿駒繋の松あり、また、宅地の一角の広場に、史跡一遍上人の地蔵堂跡の碑があった。

 密蔵院お参り。境内に、桂の木があり、「記念植樹 愛染かつら 木暮実千代」の看板があった。なぜ、ここにあるかの理由は、判らなかった。

 境川の際に「馬喰橋(うまくらいばし)」があり説明があった。 なお、今の橋の名は「うまくらばし」だった。頼朝が片瀬川(今は巾3mもない境川に流れ込む支流)に馬の鞍を架けて橋の替りにしたので馬鞍橋。また、馬がこの橋にさしかかると、いななき死んでしまうので馬殺橋と言われていたが、ある時、行者聖が橋の石を取り替えてからは災難は無くなった。など記録がたくさん残っているようです。昔から、江ノ島参詣の主要道路だった。

 境川を渡ると、鵠沼(くげぬま)に入るが、この辺が、歌などによく出てくる「砥上(とがみ)」の地のようです。 「とがみ」は「いしがみ」に変わり、「鵠沼石上」の地名が残っている。この辺は、昭和30年代まで砂丘だったようです。今は、ぎっしりと家が建っている。

 昔は、「鵠沼」と言う地名のように、この辺りは、沼がたくさんあったが、今は埋め立てられ、少ししか残っていない。その沼が、公園になっていた。子供たちが、食用蛙を釣っていた。蓮がびっしり生えていた。

 小田急江ノ島線を渡り、本真寺をお参り。大平橋を渡り、辻堂大平台1丁目に入り、宝珠寺、宝泉寺、諏訪神社をお参り。道は都市化が進み、きれいな直線の道になり、1本裏に入らないと古い道の面影がない。これらお寺さんも、裏道に、門が開いているが、1つの道に連なっていない。

 三つ又と言われる、三叉路があったようですが、地元の八百屋さん(私より若い人)に聞いても判らなかった。鎌倉街道、熊の森に抜ける道、もう1つの道の三叉路とのこと。辻堂駅の東辺りかな?

本日歩いた概要図

 

 

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