32 鎌倉古道 児神社 白山社 西方寺 不破神社 墨俣古戦場跡 義円墓 町屋観音 結神社 大師寺   岐阜

29 km   2003/01/28

鎌倉街道へ


 

 名鉄玉ノ井駅から歩き始め、木曽川尾濃大橋(濃尾ではありません)を渡り、岐阜県に入った。2万5千分の1地図の笠松町北及の集落まで行ったが、道が判らず、少し南で、西へ向かう。

 児(ちご)神社には、道に迷わず到着。お参り。この辺りも北及との事。

 鳥居前に、鎌倉街道の木杭があった。「鎌倉時代、京都と鎌倉を行き来する道は、小熊、北宿、市場から及川を渡って黒田へ出た」と記してあった。

 児神社の前の道が鎌倉街道との事。

 及川は、木曽川の昔の名前。多分、木曽川は広い範囲に別れ、通常は小さい流れで、今のような堂々と流れる水はなかったようだ。橋が架かっていたとの記事もあった。多分、浮橋だったと思う。

 十六夜日記には、墨俣の浮橋はあるが、及川の渡りの話はない。楽に渡ったらしい、と勝手に思う。

 北及の誓広寺、下門間の神明社、願教寺、北宿の白山神社、足近(あじか)の誓養寺、西方寺、をお参り。
  6寺社の写真

 この辺りは、輪中地帯で、今もその堤が残っている。境川の堤防もその一部ではないかと推定。一度羽島市の図書館などで調べてみよう。又、お寺は真宗が多い。

 雨乞い、水の神様の足近の阿遅加(あじか)神社、小熊の了応寺、樹齢300年以上のコナラの木のある薬師寺、阿蘇神社、一乗寺をおまいり。  4社寺の写真

 1km程北の長良川長良大橋を渡り、右岸の墨俣上宿へ。壬申の乱の大海人皇子、源平の墨俣合戦の地である。 又、堤防の桜並木は、よい桜だろう。

 西来寺、史跡鎌倉街道の石碑のある不破神社をお参り。  2寺社の写真

 大海人皇子、墨俣の渡りで、難を逃れた、と宇治拾遺物語にあるとの事。地元の女が、たらいに隠して川を渡した。

 義円は、義経の兄で、頼朝とは、異腹の弟になる。頼朝が動き出し、征伐に動いた平家は平清盛が病死した直後、平重衡らが墨俣に構え、源氏は、頼朝以下長良川左岸に備えた。叔父行家の応援に弟義円を出したが、義円は先陣をあせり、単身夜襲し、討死した。25歳だった。墨俣は源氏の負けであった。

 小さな義円公園に、義円の供養塔があり、又、義円の墓が田圃の真ん中にあった。

 ここから西北の方向に向かい、安八町に入った。墨俣と安八の境は、鎌倉街道、自然の高台、堤防のようだ。歩いてみるとよく判る。

 八幡社、鎌倉街道の石碑のある正明寺、津島神社をお参り。  3寺社の写真

 堤防状の道に、歴史の道の大きな案内板があった。また、この道沿いに、米の宮跡の石碑があった。倉稲魂神、五穀豊穣の字もあった。 ここにある理由は判らなかった。

 安八町町屋の照手姫の観音堂お参り。

 照手姫のお話。
 照手姫(多分、遊女)は、相模の国で小栗判官と夫婦の契りを結んだが、父は反対して判官を殺そうとした。姫は手助けして、三河の国に逃がした。
  その後、姫は、その 行方を知らず、あなた此方を尋ねたが、見つからず、ここの結大明神に再会を祈願した所、満願の夢枕に霊験あって、判官の居場所が判り、再会が出来た。
 姫は守り本尊の黄金の観音様を結大明神の宮守に預け、東国に旅立った。この観音 の堂は結大明神の境内にあったが、河川改修の際、今の位置に移った。

 結神社お参り。昔から有名だったらしい。

 十六夜日記でも、「昼つかた、過ぎゆく道に、目に立つ社あり。人に問へば、むすびの神とぞきこゆる、と言えば、まぼれただ契りむすぶの神ならば、解けぬ恨みにわれ迷はさで」とある。

 揖斐川の新揖斐川橋を渡り、大垣に入る。安八町屋の向かいの東町へ。鎌倉時代は佐渡、沢渡と言った。その時代、揖斐川は、ここには無かったが、中小河川の氾濫で、湿地だったとの事、沢渡りの土地だった。

 東町の浄勝寺、大師寺護摩堂をお参り。  2寺の写真

 大垣小野の小さな水路(川)の橋の元に、小野の長橋の石碑があった。有名な場所、歌枕だったらしい。

本日の歩いた概要図

 

 
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