23 鎌倉古道 西明寺 御油松並木 長福寺 力寿の墓 宮路山 小渡井の桝井 本宿   愛知

20 km   2002/10/02

鎌倉街道へ


 

 名鉄国府駅から。

 姫街道を、少し、豊川方向に、500mほどの所に三河総社、昔の政府機関、国府があったと言う。三河総社をお参り。位置の確認は最近のことのようです。国道から一歩入ると、この付近の細い道は、昔の道の面影をよく残している。

 国府と言う名も、この国府から。この辺は、国府と大江定基の事ばかりの様子。

 国府駅から北方向へ300m辺りに、東三河最大の前方後円墳である船山古墳。五世紀後半の古墳で、全長96m 高さ7.5m。道路、宅地で削られ半分位になっている。

 西明寺へ向かう。三河守大江定基(さだもと)が愛妾・力寿姫(りきじゅひめ)を失い、この世の無常を感じて仏門に入り、この地の山ろくに草庵を結び六光寺とし、天台宗のかたわら、力寿姫の冥福を祈ったのが西明寺の始まりです。その後、寺の名前は、六光寺から最明寺、そして現在の西明寺と改められました。

 定基は、出家してからが、今昔物語などで有名のようです。前半の三河のお話は多分余り知られていないと思われる。今昔物語はまだ読んでない。

 御油の松並木の旧東海道を赤坂に向かう。松並木は、街道筋で、ここが1番よい所。

 関川神社をお参り。芭蕉石碑 「夏の月御油よりいでて赤坂や」あり。

 鎌倉街道と言われる、宮前天神社前を通る道に左折し、宮路山へ。途中、阿口社と言う、古い、地元の神社をお参り。

 宮路山は、壬申の乱絡みである。草壁皇子(天武天皇、持統天皇の子)が陣を構えた。宮前天神社は草壁皇子が神さんとなっている。また、持統天皇はこの宮路山まで、出向いている。息子草壁皇子を忍んできたのかもしれない。

 残っている資料からは、なぜ三河に来たのかは判らない。海路で宮路山近くの港に着き、宮路山に登ったらしい。帰りは何処を通ったかは判らないようだ。

 壬申の乱は、7世紀、天武天皇の兄と言われる天智天皇が死んだ後、その息子大友皇子と天武天皇との、国を2分しての争乱。天武天皇の皇后(持統天皇)は天智天皇の娘。大友皇子とは兄弟である。

 十六夜日記の阿仏尼は、「紅葉いと多き山に向かいて行く。風につれなきところどころ、朽ち葉に染めかへてけり。ときは木どもも立ちまじりて、青地の錦をみるここちす。人に問えば、宮路の山といふ」 。紅葉の名所だった。

 阿仏尼は、この後、平地の豊川を渡っている。

 宮前天神社をお参りし、宮路山をめざし登り始める。天神社の前に、町立の立派な便所があった。本格的なハイキングコースとなっているのだなと思う。

 途中、3人連れのご婦人達 に追いつき、暫く歩きながら世間話をし、先に行く。久しぶりに先に行く人を追い抜いた。急な坂は少なく歩きやすい山道。30分登り、自動車の駐車場に出た。頂上までは、後、20分位とのこと。今日は、登頂せず、鎌倉街道を長沢に下り始める。

 ゆっくりの坂。ただ、舗装した林道で歩き難い。途中、登ってくる車2台と会う。歩く人には会わなかった。盗賊岩、浄瑠璃姫の腰掛け石などあったらしいが、今は、舗装道路で何もなし。

 30分位で、小渡井の桝井。水が湧き出ていた。聖徳太子が宮路越えの時、水を所望され、部下がこの泉を見つけ、この泉の水を飲んだ。その清く冷たい水に感動して太子自ら「小渡井枡井戸」(こどいのますいど)と名付けたという。

 本宿と長沢の間が分水嶺となり、東側は音羽川となって、豊川に合流せずに、単独で三河湾に流れ込んでいる。今は、小さい川であるが、昔は、この細い谷間を流れ下った暴れ川だったようだ。谷全体が石ごろごろだったのだろう。その為、長沢〜赤坂間は、この宮路山に入り込んだと思われる。

 1号線に出た。古道は南の田圃、山の中のようだが、道は見あたらない。赤石神社お参り。8世紀、坂上の田村麻呂が東征凱旋の時勧請したとのこと。古い感じであるが、村の鎮守、神社と言う感じだ。

 本宿の法蔵寺お参り。この寺も、行基創建とのこと。家康も小さい頃、この寺で勉強した。家康の父親などの一族の墓、戦死の家臣の墓があった。相当、風化した墓だった。

 近藤勇の首塚がある。同志が、京で 晒されていた首を盗み、この寺に無縁仏として埋めたが、昭和になってから、文書が見つかり、改めて墓を作ったとのこと。境内に、近藤勇の子孫達が植樹してあった。 

 2002.10.06 追記 長福寺 力寿の墓

 力寿の墓の場所が判ったので、お参りしてきた。

 場所は、赤坂宿内の長福寺境内。長福寺は、三河の国司大江定基との別れを悲しんで自害した赤坂の長者の娘力寿姫の菩提を弔うために建てられた寺。

 寺の裏山の墓地の1番奥に力寿の墓があった。字は、全然読め なかった。元禄頃の日付の入った、無縁のお墓が沢山あった。

 墓の位置は、お寺さんに聞いて辿り着くことが出来たが、その時、力寿の供養は、墓地の入口にある観音堂で行っていると教えて貰いました。

 昔からの旅籠、大橋屋 。今も、人を泊めているとのこと。今日も、建物には入らなかった。

今日の歩き概要図

 

 

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