40 鎌倉古道 義経元服池 平宗盛首塚 三上山 馬路石邊神社 甲屋跡 今宿一里塚 十王寺 綣村 伊砂砂神社  滋賀

15 km   2003/06/22

西行・一休など    鎌倉街道へ 


 

 JR近江八幡駅から鏡まで、バスに乗る。鏡神社をお参りして歩き始める。義経元服池を撮影、烏帽子掛松は枯れ木となっていたので止めた。ここは、国道8号線が通り、坂道をトラックがひっきりなしに走る。元服池も大人しくしている。

 古今集に、近江出身の大伴くろぬしの歌がある。

 「近江のやかがみの山をたてたれば かねてぞ見ゆる君がちとせは」    近江の国には鏡山を立ててあるので、君の千歳は予めそれに写って見えている。 鏡山は昔からの名所、歌枕だった。

 野洲町篠原に平宗盛親子の墓がある。 平家の総大将は捕まり、義経と共に鎌倉に向かうが、鎌倉に入れなかった。有名な腰越状を出したが、結局、鎌倉入りは出来ず、京に引き返した。後1日で京の、ここ篠原で親子 は斬られた。

 「義経の元服の池残る地に平宗盛の首塚の建つ」

 父親清盛が愛した、祇王はここの人で、祇王の願いで、ここに祇王井川と言う用水を開いた。今も、田圃を潤している。

 インターネットで調べてみた。祇王井川は野洲町三上の野洲川右岸 から取水し、朝鮮人街道沿いに生和神社まで約2.1kmの用水路。平安末期、北村(野洲町北)出身とされる妓王、妓女の白拍子(舞姫)の姉妹が平清盛の寵愛を受け、故郷の水不足を救って欲しいという姉妹の願いを清盛がかなえてできた水路という。妓王を祀る妓王寺、妓王の屋敷跡伝承地がある。祇王小学校もある。

 辻の甲山古墳、丸山古墳は公園になって綺麗になっていた。

 左に、三上山、近江冨士が見える。野洲の宿を過ぎ、野洲川を渡る。

 「吾妹子にまたも近江の野洲の川 安寝も寝ずに恋ひ渡るかも」 万葉集

 「近江路や野路の旅人急がなん 野洲が原とて遠からぬかは」  西行

 「旅人もみなもろともに先立ちて 駒うちわたすやすの川霧」 阿仏尼 の歌がある。この辺りは、京を立って、初めての泊まりの地だったようだ。三上山を詠んだ歌も多い。

 馬路石邊(うまじいそべ)神社の鳥居を右に見て、行く。馬路石邊は、このあたりの古郷名とされ、古代の交通手段でもあった馬を乗り継ぐ「駅」の置かれた所。「石邊」とは、馬道郷の土豪「石邊君」の姓で、野洲川の良き水・豊穣の土地の恩恵に浴した『いそべ』で、かつては源氏蛍が飛び交う郷であった。

 守山の町に入り、中山道が稲妻形屋敷割りの道になっている所に謡曲「望月」の舞台、旅篭甲屋跡。石碑が有るのみ。稲妻形屋敷割りは道に対しギザギザに段違いになった土地割りのこととのこと。治安維持のためと説明があったが、良く判らなかった。 逆に、隠れるのに都合がよいように思う。

 謡曲「望月」は、父を討たれた母子が、元部下のやっているこの甲屋に泊まった時、仇も泊まり合わせたので、母子と甲屋の主人とが、首尾よく、敵討ちをした話。

  守山の道標。

 立派な今宿の一里塚が残っていた。

 守山市焔魔堂(えんまどう)町の十王寺の門前に、「焔魔法王小野篁(たかむら)御作」の石碑があった。十王寺の焔魔大王の木像を作ったようだ。小野篁は平安の初めの人出、文武両道の人、小野小町との関係もある。

 栗東町綣(へそ)で、芭蕉の句碑に出会った。伊藤先生の芭蕉DBの中になかった句。

   「へそむらのまだ麦青し春のくれ」 はせを(芭蕉)

 草津の伊砂砂神社お参り。

本日歩いた概要図

 

 

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